久松潜一 万葉集入門 [#表紙(表紙.jpg)]   まえがき  万葉集を読んでみたいという人は多いと思います。それには作品を一首ずつかみしめて読むことが必要ですが、その前に万葉集はどのような作品であり、またいつごろ成立したか、またそれはどのような特質を有しており、日本文学の中にどのような位置を占めるかということを知っておくことが、作品を読むためにもよい準備になります。この書物は、そういうためにわたしの考えている万葉そのものについて語ったものです。いわば入門的な書物ですが、ただ概説的に万葉の知識を書いたのでなく、万葉的なるものを、わたしなりに掘りさげていったつもりです。  わたしが万葉集の中の歌を知ったのは小学校のころかと思いますが、万葉集を一つの文学作品として読みはじめたのは旧制高等学校の三年のときです。万葉集の歌に深くひきつけられていったそのときの感動は、いまも忘れません。大学では、すぐれた万葉学者の契沖を扱うことによって万葉の世界に入っていこうとしました。それから約五十年、万葉を読み続け、万葉に関して十数冊の書物も書いてきました。毎年、万葉集の講義を続けております。それで万葉の歌の本質が、あるところまでわかったようにも思うのですが、しかしわからないことも多いのです。万葉に関するこれまでの研究史をたどってみても、仙覚や契沖や賀茂真淵や鹿持雅澄はじめ多くの学者が、生涯を万葉の研究にささげています。そうしてそれぞれ万葉の本質を、あらゆる方面から探ろうとしています。かくして万葉の世界も、次第に明らかになっています。  校本の作製や数多くの注釈によって本文の訓も次第に定まり、本文の理解も進んでおります。それとともに、あまりに微に入り細をうがち過ぎて全体の見通しがつきにくくなった点もあります。それでまた一方では、全体を見渡してみることも必要になってまいります。この書は、そういう心持ちもあって筆をとりました。  研究の態度や方法としても、歴史社会的方法・風土学的方法・民俗学的方法・文芸学的方法・比較文学的方法などいろいろあげられていますが、この書はそれらのいずれの方法にも負うところがあるとともに、一つの方法に制約されずに書いております。しかし、万葉集は文学作品でありますから、文学としての性格を明らかにしようとする点に中心をおいております。そうして、万葉の歌をなさしめた人間を、万葉を通して明らかにしようとしております。歴史や風土の制約の中に生きている人間が、そういう歴史や風土を超えて生きていくところに、普遍的な人間の生き方もあると思います。愛や死の喜び、悲しみ、苦しみが美の創造の契機として現われております。それを語ろうとしたのであります。  本書では、万葉文学の世界をすべて語ってはおりません。歌人の上からいっても、人麻呂・赤人・憶良・旅人・家持らの少数の人しかとりあげておりません。ただ、ここに扱った歌人によって、万葉歌人の典型は知られると思います。このことは風土の問題についても同様であります。  ともあれ、このささやかな書を、万葉を愛し、万葉の美や人間を知ろうとする人人にささげたいと思います。   一九六五年一月 [#地付き]久 松 潜 一  [#改ページ] 目 次  まえがき  1 万葉的なもの  2 万葉時代の人生観  3 万葉集と風土  4 人麻呂・憶良・赤人  5 旅人と家持  6 都会歌と地方歌  7 万葉の湖畔詩  8 万葉集と花鳥風月  9 武蔵野の万葉  万葉略年表  万葉略系図  万葉集の参考文献 [#扉1(chapter1.jpg)]  1 万葉的なもの [#小見出し] 〈1〉万葉的なもの その特質はますらおぶり[#「その特質はますらおぶり」はゴシック体]  万葉集は源氏物語とならんで、日本の古典文学を代表する作品です。かつて東京大学文学部の教室で、日本の文学作品の中から十をあげて、そのあげた理由を説くような問題を出したことがありますが、その場合に、万葉集と源氏物語とをあげなかったものはなかったのです。枕草子や平家物語や近松や西鶴や芭蕉はそれについで多く、さらに古今集・徒然草・蕪村などがあげられました。このように万葉集が日本文学の代表的位置を占めているのはどういう理由によるものでしょうか。  万葉集の特質については、古来種々の見解がのべられています。賀茂真淵《かものまぶち》は、万葉の歌は「ますらをぶり」であるといっています。それは強い題材をうたっているというよりは、真実な感動を率直に表現するところから生じる、はりきった力強い調べをさしているのです。この万葉観はそれ以後、万葉歌風の特質を表わしたものとして重んじられています。  万葉集の歌は、約四千五百首あり(数え方によって異なりますが、それは類歌を一首に数えるかどうかによるのです。国歌大観では四千五百十六首になっています。これから万葉集の歌をあげるとき、国歌大観にある番号をつけます)、かつ、年代は、作者の明記してある歌をみると、仁徳《にんとく》天皇の御代の磐姫《いわのひめ》皇后の御歌から淳仁《じゆんにん》天皇の天平宝字《てんぴようほうじ》三年(西暦七五九年)の歌まであり、四百五十年にわたっています。しかし、歌の多くなるのは舒明《じよめい》天皇の御代(六二九—六四一年)からですから、それからは約百三十年になります。 それは写生詩であって抒情詩[#「それは写生詩であって抒情詩」はゴシック体]  ふつう、万葉時代というのはこのあいだをさします。それにしても長いあいだの歌ですから、歌風の変遷もあり、素朴から完成し、固定していく過程もみられます。これを三期もしくは四期にわけることもできるのです。しかしそれを全体として考え、また、古今集や新古今集の歌風と比較しますと、万葉の歌風は真淵のいったような特色がみられます。  こういう特色は、現在でも、万葉といえばすぐ感じられる点ですが、万葉の特色は種々異なったことばでも表わされています。  正岡子規は写生を重んじておりますが、万葉集の歌を写生の歌としてとりあげております。さらに近くは万葉集を抒情詩としてとりあげる見方もあります。  写生詩と抒情詩は異なっているようですが、根本においては共通するものがあります。子規の説く写生では、絵画のスケッチのように、自然を客観的に写すのが写生であったのですが、斎藤茂吉氏の『短歌写生の説』では生命を写すことと解し、実相観入の歌であるといっています。すなわち、心情を率直に、ありのままに表わすことは写生となってきます。そうすると抒情詩と共通するに至るのです。  茅上《ちがみの》娘子《おとめ》が夫|中臣宅守《なかとみのやかもり》のことをよんだ、    帰りける人来れりと言ひしかば       ほとほと死にき君かと思ひて。(三七七二) という歌も写生であります。流された人がゆるされて帰ってきたと聞いて、流されている自分の夫、宅守が帰ってきたかと思って死ぬほどうれしかった、というそのときの心情を、ありのままにうたったこの歌は写生歌であり、抒情歌でもあるのです。 なぜいつまでも新鮮か[#「なぜいつまでも新鮮か」はゴシック体]  心情にしても、自然にしても、それを真実のままに率直に表現するのが写生でもあり、抒情詩でもあるのです。万葉集の歌はそのような点で抒情詩でもあり、写生の歌でもあります。これは写生の語の解釈にもより、写生をそのように解するのに反対する説もありますが、いずれにしても歌の本質的なものが万葉集に出ているのです。  このような点で、古今集や新古今集の歌とも異なった独自の歌風をもっているのです。自然を主観的に解釈して表わしたり、心情を理知と結びつけて表わす点がないのです。その点に、万葉集の歌がいつまでも新鮮で、古くならない大きな理由があります。 [#小見出し] 〈2〉万葉的なものの展開 文選《もんぜん》や詩経の影響を受けて[#「文選《もんぜん》や詩経の影響を受けて」はゴシック体]  日本文学は万葉集に至ってはじめてすぐれた抒情詩をえたのです。万葉集以前の記紀の歌謡は日本の抒情詩の母胎ですが、まだ抒情詩として完成していません。万葉集に至ってはじめてすぐれた抒情詩が成ったのです。  中国の文学の詩経に比較されますが、詩経は歌謡的な性質が多い点では、記紀の歌謡に近い点もあります。漢と唐のあいだの六朝《りくちよう》時代の文選と万葉集を比べることもできますし、万葉集の成立したころには詩経だけでなく、文選もすでに伝来されていて、その影響をも受けております。ただ文選は、六朝時代の一般の傾向として修辞を好み、技巧を重んじている点では、万葉集の歌風と異なるものがあります。古今集の歌に六朝詩風の影響と類似とをみることもできるのです。  これらの点は種々の問題があって簡単に割り切ることができません。おいおいに説明していきますが、しかし万葉集の歌にもそういう六朝時代の文選から影響を受けた詞句や素材があることは、比較文学的研究によって明らかにされてきました。そうして万葉集にある漢文には、文選の詞句の影響は多いのですが、歌の発想には詩経風の直截《ちよくせつ》な表現が多いとみられるのです。 やがて表われる各歌人の個性[#「やがて表われる各歌人の個性」はゴシック体]  こうはいっても、柿本人麻呂《かきのもとのひとまろ》以降になると、それぞれの歌人の個性が著しくなって、一様には律しえないのです。  山部赤人《やまべのあかひと》と山上憶良《やまのうえのおくら》とを比較しても、赤人は自然を多く題材としているのに対して、憶良は人生を主としてうたっています。赤人の歌には、自然の清らかさがうたわれ、人生をうたっても、真間手児奈《ままのてこな》のような清純な人間の生き方をうたっているのに対して、憶良は理性的な美をうたっており、貧窮や病や老や死のせまる悲惨な生活や人生をうたい、その中にも人生への愛を求めております。  このほか種々の歌人によって、さまざまな人生や生活がうたわれています。それらの中に現在にも通ずる人生の真実が感じられるのです。また、万葉集には女の歌人も多く、それらは題材はせまくとも、真実な愛情をうたって、男性の歌人にはみられない純粋なものがあります。 [#小見出し] 〈3〉万葉の形と美 五七五七七の短歌が中心に[#「五七五七七の短歌が中心に」はゴシック体]  万葉集の歌体には、長歌・短歌・旋頭《せどう》歌・仏足石《ぶつそくせき》歌碑体などの歌があります。長歌が二百六十余首、旋頭歌が六十数首、そして仏足石歌碑体の歌数首に対して、短歌は四千百数十首もありますから、中心は短歌になっております。  しかし、長歌は、人麻呂の高市《たけちの》皇子《みこ》をいたむ歌が百四十九句もある大長歌であるのをはじめ、量において大きいために、万葉集ではずいぶん目につく歌体となっています。  同じ六句でも旋頭歌は、    新室《にひむろ》の壁草刈りにいまし給はね       草のごと依りあふをとめは君がまにまに。(二三五一) (新しい家をつくる壁に入れる草を刈りにきてください。草のようによりそうおとめはあなたのままになりましょう。) のように、五七七五七七の六句であるのに対して、仏足石歌碑体の歌は五七五七七七の六句であり、それも短歌を謡《うた》うために一句を添えた形式ですから、厳密には、短歌が謡われるために一句繰返しがついたといえるのです。  そうして、旋頭歌は謡われる形式として、上句と下句とが全く同一の五七七ですから、謡われなくなりますと、滅亡していき、もしくは第三句が脱落して五句となっていきます。  また長歌も、第四期になると次第に衰退していき、短歌の詞書《ことばがき》のような性質をもってきます。そうしてほとんど、短歌だけが行なわれる平安時代の状態をすでに示しています。  短歌以外の形態は主として男性の主要な歌人によってうたわれ、女の歌人や作者未詳の歌は、だいたい短歌が主になっています。 ことばによる人間性と美との一体化[#「ことばによる人間性と美との一体化」はゴシック体]  万葉集に限らず文学は、人間性や人間生活の表現でありますが、それも美的体験を通して表現される点に、芸術としての特質があり、さらに言語によって表わされる点に、絵画や音楽と異なる文学の特質があるのです。この点に人間と美と言語とが文学を成立させる三つの要素ともなっています。そうして同じ文学でも、人間をより意識的に重んずる文学と、美を意識的に重んずる文学とがありますが、万葉集は、人間と美とが一体になっています。  人間性の本質を、真実やまことで表わすことができますが、万葉集の歌は、全体としてこういう真実やまことが中心になっていると同時に、それがそのまま美となるのです。万葉集の美を清の美、明の美、直の美で表わすことができます。清の美は純粋感情の美であり、明の美は知性の美であり、直の美は意志の美であるといえるのです。  この明るく清(浄)く直き美は万葉美、ひいては上代文学の美といえると思います。そうして、人間性としての真実やまことは、これをわければ、純粋な感情と明らかな理性と率直な意志となり、それが一体となっているのがまことです。そのことは上代の宣命《せんみよう》(天皇が臣下にたまうおことば)にも「明く浄く直きまこと」ということばで、しばしば表わされております。  こういう点でも、上代文学を代表する万葉集は、人間性と美とがまだわかれないで、一体となっているといえるのです。人間性と美とが一体となって、言語によって表現され、形象化されているのが万葉文学の性格であります。それを万葉精神といってもよく、万葉様式といってもよいのです。 [#扉2(chapter2.jpg)]  2 万葉時代の人生観 [#小見出し] 〈1〉万葉時代 いちおう記紀歌謡時代を切り離す[#「いちおう記紀歌謡時代を切り離す」はゴシック体]  万葉集のとりあげ方は種々の方面がありますが、ここでは人生観、もしくは人間観という点からみたいのです。万葉時代というのは、前章で申したように、広くいえば四百五十年にもわたっていますが、舒明天皇までは古事記・日本書紀に歌謡があって、その年代の万葉集の歌よりも多いのであり、記紀歌謡時代ともいえますから、舒明天皇から淳仁天皇までを万葉時代という方が適当です。この間の百三十年間を万葉時代といいたいのです。  もとより、万葉集の最後の歌人としての大伴家持《おおとものやかもち》は、天平宝字三年から二十数年も生きのびて、延暦《えんりやく》四年に六十九歳(六十八歳とする説、七十歳とする説もあります)で世を去っていますから、万葉時代を延暦四年(七八五年)までのばしてみることも考えられます。また、平城《へいぜい》天皇は「ならのみかど」ともいわれ、平安京に都はあっても奈良の都を慕《した》い、奈良時代をあこがれた時代であったとみられます。万葉集も平城天皇の時代に成ったとする説もあるのです。  また、舒明天皇からを万葉時代とするといいましたが、記紀歌謡時代と万葉時代とは交錯《こうさく》しているのです。記紀歌謡時代のうちでも応神天皇以降は、文献も多少作られたと思われますし、万葉時代でも、初期万葉の時代とは接近してくるのですから、万葉時代といってもそれほど厳密に規定することはできないのです。しかしいちおうここで万葉時代というのは、記紀歌謡もしくは記紀時代と区別しておくこととします。 重要なその貴族性と庶民性[#「重要なその貴族性と庶民性」はゴシック体]  また、万葉時代といっても、万葉時代に生活したすべての人というよりは、万葉集に作品を残している人々になってきます。それは万葉時代を代表していることになりましょうが、歌をよまない多くの人々も、もちろんあったはずです。  万葉集に歌を残している人々は天皇・上皇の命によって選ばれた古今和歌集以後の勅撰集とは異なって、東国の農民や、乞食人《ほがいびと》もいますが、それにしても歌を詠作したのは庶民といっても、その範囲や数は限られています。大部分は、貴族に属する人々です。  津田左右吉氏は上代から中古までを貴族文学としており、万葉時代をも貴族文学時代とみておられます。戦後、西郷信綱氏も、『貴族文学としての万葉集』を書いて、万葉集の貴族性を説いておられます。  こういう見解に対して、万葉集から庶民性を見出そうとする説も多くなり、その点から東歌《あずまうた》が重視されてきたことも注意されます。  ですから、万葉集には庶民性も見出されるが、中心をなすのは貴族性であり、貴族の文学である、というべきかもしれないのです。そうして、万葉集の貴族性と庶民性ということは、万葉時代の人生観をみるためにも重要な点であると思うのです。 万葉人たちはどこでどう生きたか[#「万葉人たちはどこでどう生きたか」はゴシック体]  つぎに、人生観ということも種々考えられますが、ここでは万葉時代の人々は人生をどのようにみていたか、また人生をどのように生きようとしたか、という点を主題において考えてみようと思います。ただそれには、万葉時代の人々は、どのような場に生活していたか、また、どのような伝統を背負っていたかということも、考慮においてみる必要があるでしょう。  いい換えれば、万葉時代人は、どのような歴史的風土的性格の中におかれていたか、ということが考えられるのですが、万葉集は、大和《やまと》という山間の風土を中心として、そこにあった宮廷や貴族の生活の中から生まれている、ということがいえるのです。もとより万葉集の中には、筑紫や石見や越中・東国という広い地域にわたって歌がよまれています。 万葉人はどこで歌をよんだか[#「万葉人はどこで歌をよんだか」はゴシック体]  東歌のように東国の農民のよんだ歌もあり、また旅人・憶良・家持のように、大和に生活の基盤をもつ官僚であって、地方に太宰帥《だざいのそち》(旅人)、筑前守(憶良)、越中守(家持)として赴任し、その地でよんだ歌もあります。これらには風土的なものと、歴史的なものとが交錯しており、そのような歴史的風土的な場で歌がよまれているのです。それで、そのような場が、それらの人々の生き方の上にも影響を与えているし、その歌の上にも、それが反映しているのです。  万葉時代でも壬申《じんしん》の乱(六七二年)が終わって天武天皇の御代までの初期万葉時代と、人麻呂の活躍した藤原宮時代(六八七—七〇六年)と、奈良に都された時代とでは、社会情勢も異なっています。奈良時代でも初期の和銅《わどう》・養老《ようろう》・神亀《じんき》時代(七〇七—七二八年)と、中期の神亀・天平時代(七二九—七五八年)とでは相違があります。  また同じ家持にしても、壮年にして都で宮内官をしていたころの人生観と、北越の雪深い風土の中で越中守であったころとでは、相違があるのです。ですから万葉時代と限定しても、さらに年代により、地域により、個人によって異なることを考慮する必要があるでしょう。 [#小見出し] 〈2〉神と人間 神はしばしば万葉人の生活に現われる[#「神はしばしば万葉人の生活に現われる」はゴシック体]  わたしは第一に、万葉における神と人間とについて考えたいのです。万葉時代の人々の生きる態度の上で注意されることは、人間への自覚ということですが、同時に、神の問題は伝統的に結びついています。古事記の上巻や日本書紀の巻一、二は神の物語であり、神の世界が中心となっていますが、古事記の中・下巻においても、神が人間を支配しており、なにか事が起こると神力を期待するのです。  磐余彦命《いわれひこのみこと》(神武天皇)の大和|鎮撫《ちんぷ》の場合にも、日本武尊《やまとたけるのみこと》が東国へ向かわれる場合も、神功《じんぐう》皇后が新羅《しらぎ》に向かわれる場合も、神の力によっています。日本書紀の記事によりますと、やや趣を異にしていますが、それでも神の力はいたるところに現われて、人間を導き、助けています。  この点は神官の奏する祝詞《のりと》になりますと、直接神と人間と接する場において、人間が神に祈り、また神が託宣《たくせん》を垂《た》れるのです。  万葉集はこれらに比べると、人間の自覚によって、抒情という発想のもとに歌となっているのですから、人間が主体として行動しているのです。しかし万葉人の生き方のうえでも、神は種種の場合に現われています。柿本人麻呂の歌では、天皇をたたえ仰ぐという形で現われていますが、万葉集の中には精霊信仰もしばしばみられます。 神話と人間とをつなぐ歌人、人麻呂[#「神話と人間とをつなぐ歌人、人麻呂」はゴシック体]  人麻呂はある意味で、神話と人間とをつなぐ歌人であるといえます。これは、人麻呂が宮廷に仕えて、帝皇日継《ていこうのひつぎ》や先代旧辞《せんだいきゆうじ》を誦習した稗田阿礼《ひえだのあれ》に接したことから神話を身につけたともみられるのですが、大和の柿本氏が神話を伝誦する家柄であったことも考えられます。いずれにしても、人麻呂によって、神話の世界をうけ伝えつつ、人間的に自覚していく過程をみることができます。  人麻呂が宮廷歌人として天皇の行幸に供奉《ぐぶ》し、皇子・皇女の薨去《こうきよ》をいたんだ歌には、ほとんどすべて、「やすみししわが大君神ながら神さびせすと」という詞句がみられます。これは神によって生きる人間の姿をよく表わしています。それは宮廷賛歌として当然ですが、人麻呂は、瀬戸内海の旅行の歌においても、    大君の遠《とほ》のみかどとありがよふ       島門《しまと》を見れば神代しおもほゆ。(三〇四) (大君のいます遠い都として通っている、島と島とのせまくなった所を見ますと、神代のことが思われます。) とよんでいます。島門を見ても、神代が思われるというのは、人麻呂の心のうちに神代が常にあったということになります。それが宮廷賛歌の場合はもとよりですが、旅の歌においてもこのような発想となるのです。 神をあがめ神をよりどころに[#「神をあがめ神をよりどころに」はゴシック体]  そうして、人麻呂の歌に常に出てくる「神ながら神さびせすと」ということは、神観をみるのには重要な語です。「神ながら」は、かつて上田万年博士が「な」は「の」の意であり、「から」は「柄」であるとして「神の柄」であると解されています。国柄・家柄と同じく神柄であるとされるのであり、すぐれた着想です。ただ、「ながら」は随であり、神のままに「神に随って」という意味に解するのが穏当であると思われるので、それによることにします。日本書紀にある用例からみても、そのようになります。 「神さびせす」とは、「神成」「神古」をも「かんさび」と訓じていますが、神に成る意になり、「翁さび」「少女さび」も翁らしくなる、少女らしくなる意になります。神さびも神らしくなるのです。神に随って神になるというのが、「神ながら神さびせす」との意です。  人麻呂の歌によると、大君も「神ながら神さびせす」ことによって神になるのです。それは超越的な神ではなく、現神《あきつかみ》の思想ですが、ここに神話と人間とを結ぶ態度がみられます。  このように神をあがめ、それをよりどころとしたのが人麻呂の生き方であったのですが、それは人麻呂のみならず、万葉時代における人々の生き方の一つでした。そうしてそれは個人の生き方としてよりは、氏族や集団の生き方であったのです。  このような点から、現在、民俗学的な解釈では、人麻呂の文学を人麻呂の個人性からみるよりは、人麻呂の属する氏族や集団の文学としてみる説が提起されています。これは人麻呂の文学の解釈にとって重要な点ですが、人麻呂の文学を、ただ柿本氏や集団のみから説明するだけでは人麻呂を全体的に理解できない点もあります。 人麻呂の神から人間への自覚[#「人麻呂の神から人間への自覚」はゴシック体]  人麻呂は、そういう柿本氏の中で生きるとともに、次第に一人の個性としても自覚されてくるのです。人麻呂の文学もこの点によって、柿本氏の文学から人麻呂の文学となってくるのです。人麻呂の歌の中でも、妻に別れて石見から上ってくるときの歌の反歌、    ささの葉はみ山もさやにさやげども       吾れは妹おもふ別れ来ぬれば。(一三三) (ささの葉はみ山もさやぐようにさやぐけれども、わたしは妻のことを思っている。別れてきたから。) や、妻の死を悲しむ歌の反歌、    去年《こぞ》見てし秋の月夜《つくよ》は照らせども       相見し妹はいや年さかる。(二一一) (去年見た秋の月夜は照っているが、ともに相見た妻はいよいよ遠くなっていく。) という歌には、人麻呂の個人としての悲しみが表われております。人麻呂の文学を氏族や集団の文学としてみるのは、神を中心におく人麻呂観ですが、個性の文学としてみるのは、人間を中心におく人麻呂観であるといえます。  人麻呂の生き方にはこの二つの生き方があり、その文学も、神と人間との文学とみるべき点があります。ただこの両者のいずれに重点をおいてみるかに、人麻呂観のわかれるところがあるのです。わたしは、人麻呂の文学を、神から人間への自覚の文学とみたいし、柿本氏族の文学から、人麻呂の文学として展開したと解したいのです。 神・精霊・自然と人間[#「神・精霊・自然と人間」はゴシック体]  ともあれ、人間の自覚の文学の場合にも神はよりどころであったし、生活のすみずみに精霊は威力をもっていたことを、人麻呂だけでなく、万葉集の文学の中に見出しうるのです。精霊の威力は、卜《うら》や兆《しるし》をよんだ歌によってもしられます。そうして人麻呂のような宮廷奉仕の歌人は、神話の伝統を現実にうけついだ宮廷賛歌において、「やすみししわが大君」を現神としてたたえていますけれども、一般の庶民は、精霊信仰から出発した石占《いしうら》や結び松などの民間信仰に、生活のよりどころを見出していたといえるのです。  生命の危険を感じられた有間皇子が、    磐白《いはしろ》の浜松が枝をひき結び       まさきくあらばまたかへりみむ。(一四一) (磐白の浜にある松の枝を結んで、幸いに命があればまた帰って見ましょう。) とよまれたのは、民間の信仰が皇族や貴族の上にも及んでいたことを語っています。皇室|鑚仰《さんこう》と民間信仰とは、次元を異にして、万葉時代人の生きるうえのよりどころであったといえるでしょう。そうしてその根底には、神と精霊と人間と自然とが一体でした。  神話や精霊の時代から、次第に人間が、神や精霊と別々に生きるようになってきたところに、神や精霊を人間の外にあるものとして、これを畏《おそ》れ、もしくは信仰して、それによって人間が生きようとしたといえるのです。そのようにして万葉時代人は、神や精霊や自然から別の存在としての人間を自覚してきた、といえるのです。 [#小見出し] 〈3〉万葉人の愛 二つの重要な軸、愛と死[#「二つの重要な軸、愛と死」はゴシック体]  人間としての自覚の上に立つ文学は、万葉集の特質にもなっていますが、それはどのように文学の上にみることができたか、わたしはここで愛と死という点をあげてみたいのです。  万葉時代人の人間的自覚は、人間を愛することと、人間の死を悲しむこととに切実に現われています。万葉集の歌の分類が恋の歌などを贈答する相聞《そうもん》、葬式のときにうたう挽歌《ばんか》を二つの主軸として、これ以外の種々の場合を雑歌《ぞうか》としているのは、愛と死とが、人間にとって最も重大な点であると考えたからでしょう。  万葉時代は、すべてのものを愛するところから出発します。相聞はわれと他との贈答をさしていますが、その中心になるのは男女の恋愛です。しかしそれだけでなく、親兄弟の贈答の場合も相聞といわれます。この点が古今集以降においては恋愛に限られてしまうのと相違しています。万葉集における相聞が、純粋抒情的であることはその特質ですが、その歌をみると恋愛も親子の愛も兄弟の愛も区別できないような場合があります。  坂上《さかのうえの》郎女《いらつめ》が、その甥《おい》であり、自分の娘の坂上大嬢《さかのうえのおおいらつめ》の婿《むこ》となるべき家持に贈った歌をみると、愛人に対するような趣があります。家持が越中に赴任した後に、坂上郎女が家持に贈った歌に、    旅にいにし君しもつぎて夢に見ゆ       あが片恋ひのしげければかも。(三九二九) (旅にいかれたあなたがつぎつぎに夢に見えます。わたしだけの片思いがしげいためでしょうよ。) とありますが、この歌などは恋愛とみられるようなことばづかいです。 その愛は純粋感情的[#「その愛は純粋感情的」はゴシック体]  これは坂上郎女の人間態度ともみられますし、また一般的に異母兄弟の結婚も許されたこの時代の特質ともみられるのですが、また当時においては、恋愛も母性愛も兄弟愛も、余り区別できないような愛の感情をもっていたのではないでしょうか。万葉の相聞歌は、広い意味の人間愛が、われと他との関係において表わされたといえるでしょう。そうしてその愛は純粋感情的で、理性的な点は少ないのです。  これは初期万葉時代における穂積《ほずみの》皇子《みこ》と但馬《たじまの》皇女《ひめみこ》との相聞歌をはじめ、人麻呂歌集の相聞歌を経て、大伴家持の若き日の相聞歌に至るまで、ほぼ一貫しています。それは貴族も庶民も男性も女性も同様ですが、貴族よりも庶民の愛がより純粋であり、男性よりも女性の方がより純粋感情的であることが、歌の上で認められるのです。東歌の相聞歌や笠《かさの》女郎《いらつめ》や茅上《ちがみの》娘子《おとめ》の相聞歌の純粋抒情的であるのをみれば明らかです。  そうして、愛の典型ともいうべきものが真間手児奈《ままのてこな》や蘆屋《あしやの》処女《おとめ》の伝説歌にみられる愛です。これは現実にまれにあった事柄であり、それゆえに伝説としてうたわれたのでしょう。ここには愛の純粋なものを見出しえますが、同時にここには万葉女性の愛の有する倫理性と、死との問題をも示しています。  真間手児奈は多くの男性に求婚されて、いずれか一人に定めかねて、身を投げてしまうという伝承であり、蘆屋処女は二人の男性に求婚され、いずれとも定めかねて身を投げてしまうという伝説です。ここに純粋な愛情を認められるのですが、しかしこの場合、身を投げてしまうのは相手の男性を愛するためというよりは、二夫にまみえないという貞操観念にも近いものがあります。 こばみえず選びえず死ぬ万葉おとめ[#「こばみえず選びえず死ぬ万葉おとめ」はゴシック体]  しかし、相手のうちの一人を選ぶということは可能ですから、このさい死を選ぶのは、貞操観念とも異なっています。上代の日本武尊《やまとたけるのみこと》における弟橘《おとたちばな》比売《ひめ》が夫の尊を救うために、身代わりに海に投じたのとは異なっており、また大葉子《おおばこ》が韓国で夫とともにとらわれたさい、夫の伊企儺《いきな》は殺されたが、大葉子も、「韓国《からくに》の城《き》の上《へ》に立ちて大葉子は領巾《ひれ》ふらすも大和へむきて」とよんだという女傑的な行動とも異なっています。  むしろ、男性からの愛をこばみえない、そうして選択をもなしえない女性の弱さ、あわれさを表わしているともいえるでしょう。それだけ人間的であるともいえます。しかしこの場合に、現実の生に執着するところなく死んでしまう点に、いさぎよい純粋な態度がみえるのであり、めめしく弱い点がありません。その点では、平安時代の女性がほとんど死の行動をとらない(源氏物語の浮舟《うきふね》のみは二人の男性の愛の板ばさみになって死を決心しますけれども、それも途中で気を失うことによって救われてしまうのです)場合が多いのと異なっています。  ただそれが男性に対する純粋な愛や倫理観からでない点が弟橘比売の場合などと異なるのです。また中世の源平盛衰記《げんぺいせいすいき》にみえる袈裟御前《けさごぜん》が、夫の身代わりになって自分を愛する盛遠(文覚)に進んで殺される場合とも異なるのです。  ただ、生の執着もなく死んでいく真間手児奈や蘆屋処女は、死を軽くみていたのでしょうか。 そのまま死に通じる愛のはげしさ[#「そのまま死に通じる愛のはげしさ」はゴシック体]  勝鹿の真間の娘子《おとめ》をよんだ歌に、    いくばくも 生けらじものを 何すとか 身をたな知りて    浪の音の 騒ぐ湊の おくつきに 妹がこやせる。(一八〇七) (いくらも生きられないでしょうに、なんで身のほどを知って、浪の音の騒ぐ湊の墓に、愛する人は眠ってしまったのか。) とあるように、なぜ死んだかということを考えてみますと、生を軽くみたとだけいえないでしょう。やはり愛と死との関係をここにみることができるのです。ことに蘆屋処女の死をきいて、血沼《ちぬ》壮士《おとこ》があとを追って池に投じ、さらに菟原《うばら》壮士《おとこ》も続いて池に身を投ずるのは、愛するもののために死をいとわない態度がみられます。これは伝説の世界においてですけれども、こういう伝説を語りつぎ、いい伝えた点に、万葉時代の人々は愛に対して一つの純粋な生き方を見出したのでしょう。  そうして万葉集の相聞歌をみても、愛の強さ・はげしさをうたい、会うことができなければ死をも辞しない、という心をうたった歌がみられます。    生きてあらば見まくも知らず何しかも       死なむよ妹と夢に見えつる。(五八一) (生きていれば会われる日もわからない、どうぞして死にましょうよ、あなたと夢に見えましたよ。)  このような愛のはげしさは、そのままに死と通ずるのです。愛のためには死をもいとわないとするのです。  しかし、万葉時代人が死をどのように考えていたかは、別に考えてみるべき点があります。もとより万葉時代においても初期万葉のころと、奈良時代になって、隠遁して精神の深さを求める老荘思想や仏教思想が歌によまれるようになってからとでは相違がありますが、死生観は万葉時代の人生観として中心になる問題です。 [#小見出し] 〈4〉万葉人の死 一貫して流れている死への悲しみ[#「一貫して流れている死への悲しみ」はゴシック体]  万葉集における挽歌をみると、死を悲しんでいる点では一貫しています。たとえば人麻呂の挽歌をとりあげますと、かれの挽歌は、皇子や皇女の薨去をいたむ挽歌と、妻や旅で死んだ人をいたむ歌とにわけてみられるのですが、いずれにも死を悲しむ心情がうたわれています。  題詞にも泣血哀慟《きゆうけつあいどう》のような語もみえる、高市《たけちの》皇子《みこ》に対する挽歌の反歌には、    ひさかたの天《あめ》知らしぬる君故に       日月も知らず恋ひわたるかも。(二〇〇) (この世からお去りになり、天をおおさめになる君のために、月日のたつのも知らずに、いつもお恋い申しています。) とあり、妻の死を悲しむ挽歌の反歌には、    秋山の黄葉《もみじ》をしげみ迷《まど》ひぬる       妹を求めむ山道知らずも。(二〇八) (秋山の黄葉がしげいので迷ってしまった愛する妻をさがそうとしても、山辺の道がどこへいってよいかわからない。)    去年《こぞ》見てし秋の月夜は照らせども       相見し妹はいや年さかる。(二一一) (去年見た秋の月夜は今年も照っていますが、ともに見た妻はいよいよ亡くなってから年がたっていきます。) とあります。このような死への悲しみは、挽歌に共通する点です。 よみがえりの思想は表面から消える[#「よみがえりの思想は表面から消える」はゴシック体]  人麻呂より時代が下り、外来思想の影響のみられる大伴旅人《おおとものたびと》が、その妻の死を悲しんだ、    世の中はむなしきものと知る時し       いよよますます悲しかりけり。(七九三) (世の中は空しいものと知るとき、いよいよますます悲しいことです。)  旅人の子の大伴家持が、弟|書持《ふみもち》の死を悲しんでよんだ長歌の反歌、    まさきくと言ひてしものを白雲に       たちたなびくと聞けばかなしも。(三九五八) (無事でといいかわしたのに世を去って、白雲となびいていると聞くと悲しい。) においても同様です。ただここで問題になるのは、万葉時代において、死はいっさいの消滅であって霊は存していないとしているのか、もしくは肉体の消滅であって霊は存しているとしているのか、また、この世に対して来世を認めているのかどうか、ということなのです。  神話の世界は、死んでいく黄泉《よみ》の世界を設定しており、また死んで再びよみがえるという思想がみられます。大国主神《おおくにぬしのかみ》が、兄弟たちの謀《はかりごと》によって焼け石にうたれて死なれますが、再びよみがえられるのもそうです。神話の伝承をうけついでいる人麻呂の歌には、こういう思想はあまり表面にはうたわれていないのです。 天皇だけにみられる霊の存在[#「天皇だけにみられる霊の存在」はゴシック体]  日並《ひなめしの》皇子《みこ》の挽歌には、    いかさまに 念ほしめせか つれもなき 真弓《まゆみ》の岡に    宮柱 ふとしきいまし みあらかを 高知りまして    朝ごとに み言とはさず 日月の まねくなりぬれ。(一六七) (どのようにお考えになられたのか、ともなうものもない真弓の岡に柱をふとくきずき、御殿をお作りになって、そこにおかくれになり、言葉もおっしゃらず、月日が多くたちました。) とあり、高市皇子の挽歌には、    朝もよし 木の上の宮を 常宮《とこみや》と 高くしまつりて    神ながら しづまりましぬ。(一九九) (城上《きのえ》の宮を、いつまでもいられる御殿と高くきずかれて、神としておしずまりなさった。) とあるのですが、神話の場合のように、黄泉《よみ》やよみがえりの思想はうたわれていません。ただ、「ひさかたの天知らしぬる君ゆゑに」(二〇〇)(天をおおさめになる皇子のために)という詞句をみますと、世を去られて天をしらすという思想と解することもできます。それにしても、日継《ひつぎの》皇子《みこ》の場合であって、一般の人間の死に対してではないのです。  そういう点では、天智天皇のご病気が重くなられたとき、太后のよまれた、    天の原ふりさけみれば大君の       御寿《みいのち》は長く天照《あまた》らしたり。(一四七) (天をふり仰いでみますと、ご寿命は長く天にあって照らしておられます。)    青旗《あをばた》のこ旗の上をかよふとは       目には見れどもただに逢はぬかも。(一四八) (青旗のこ旗の上を御魂は通っていられると、目にはみえますが、直接にはお目にかかれません。) の御歌のうち、前者では「天をしらす」に通ずる思想がみえ、後者では肉体を離れて霊が存在しているとする思想がみられます。が、この御歌も天皇の場合であって、一般人の場合に推し及ぼすことは適当ではないようです。 常なき人の命の悲しみ[#「常なき人の命の悲しみ」はゴシック体]  春日《かすが》王の弓削《ゆげの》皇子《みこ》に和《こた》えた、    大君は千歳《ちとせ》にまさむ白雲も       三船の山に絶ゆる日あらめや。(二四三) (大君は千歳までいますでしょう。白雲が三船の山にかかって消えてもまた出て、いつまでも絶えないように、絶える日はないでしょう。) の御歌にある、千歳にます、というのも大君であるからであって、一般人の場合ではないのです。人間としては死は免れないとして悲しむとともに、それによって人生の無常を感じたのです。  万葉集に無常感があるかどうかはしばしば論じられる点ですが、人生の常なきを感ずる歌はあります。それにも、死による生命の無常を感ずる場合と、栄枯盛衰のはなはだしきことに人生の無常を感ずる場合とがあります。  弓削皇子が、吉野に春日王と遊ばれたときの御歌、    滝の上の三船の山にゐる雲の       常に有らむとわが念はなくに。(二四二) (滝の上のみ船の山にかかっている雲が、いつもあるように、わたしの命はいつまでもあろうとは思いませんよ。) は、前にあげた春日王の和《こた》えられた御歌に、「大君は千歳にまさむ」(二四三)とあることから、死による生命の無常をさしているとみられます。この歌は、三船の山が常にあるように、命も永遠にあるとは思わないと解するか、三船山にいる雲がやがて消えるように、人間の命も常にあるとは思わないと解するか、あいまいな点があります。人の命が常でないということは、どの場合も同じですが、雲が常であるか、常でないかという点に相違があるのです。これはどちらでもよいようですが、雲が常であるか常でないかということは、自然が常であるか常でないかということと関連してくるのです。 人生の無常と自然の無常[#「人生の無常と自然の無常」はゴシック体]  自然は永遠であって、人生は無常であるということは、万葉集にもうたわれているところですが、自然も人生と同じく無常であるという思想もうたわれています。  大伴坂上《おおとものさかのうえの》郎女《いらつめ》が親族と宴するときの歌、    かくしつつ遊び飲みこそ草木すら       春は生ひつつ秋は散り行く。(九九五) (このようにして遊び飲んでいるうちに、草木でさえも、春は芽が出て、秋になると散っていきます。) は、草木さえも春芽を出して秋になると散っていくというので、自然もうつろうていくことをうたっていますが、まして人生は転変が激しいことを表わしています。それは人間生命の無常とともに、大伴家一族の衰えゆく運命をもさしているとみられます。  膳部《かしわべ》王を悲しんでよんだ、作者不詳の歌に、    世の中は空しきものと有らむとぞ       この照る月は満ちかけしける。(四四二) (世の中は空しいものとある証拠に、この照る月もみちてはかけます。) とありますが、人生の空しいように、自然の月もみちかけするという点に、自然も人生も空しいといっているのです。  また、婿の南右大臣家藤原二郎が慈母を喪《うしな》ったのを弔った大伴家持の歌、    世の中の常無きことは知るらむを       情《こころ》つくすなますらをにして。(四二一六) (世の中は無常であることは知っていましょうから、くよくよなさるな、ますらおだもの。) は、人生の無常を直接にうたっていて、自然との対比はみられないのです。 この無常の人生をどう生きるか[#「この無常の人生をどう生きるか」はゴシック体]  また、    いさなとり海や死にする山や死にする       死ぬれこそ海は潮ひて山は枯れすれ。(三八五二) (海は死にますか、山は死にますか。死ぬからして海は潮が干、山は木が枯れるのです。) は、自然そのものも死することをうたっています。もとよりこの歌は、「死ぬれこそ」は「死なばこそ」と訓じて、下句を仮定ととり、上句を反語にとることもできないではなく、そうすると自然は死なない、無常でないという意になります。わたしはむしろその方に解したいのですが、通説では山や海も死ぬという意にとっています。そうすると万物流転という思想となるのです。  このような生死観は、仏教思想や老荘思想をとり入れた旅人・憶良になると、ただ人生の無常を感じ、それを悲しむだけでなく、無常の人生をどのように生きるべきか、という点が考えられてくるのです。ただそういう思想も、万葉時代では、知識的にとり入れるだけで、真に自らの生きゆくよりどころとするまでには至らなかったので、人生観として十分に掘りさげられていないのです。  その例として旅人の讃酒歌をとりあげてみましょう。 [#小見出し] 〈5〉人生観を支える思想 どうせ死んでしまうのだから[#「どうせ死んでしまうのだから」はゴシック体]  老荘思想や、儒学思想や、仏教思想が万葉集の歌に現われてくるのは、神亀《しんき》・天平《てんぴよう》時代、大伴旅人や山上憶良の歌が表面にでてくるころからです。そうして、旅人の歌に老荘思想がみられることは、すでにいわれていることです。讃酒歌十三首はそのいちじるしい例ですが、このうち、    この世にし楽しくあらば来む世には       虫に鳥にもわれはなりなむ。(三四八) (この世さえ楽しくあるならば、来世《らいせ》には虫や鳥になってもかまわない。)    生けるもの遂にも死ぬるものにあれば       この世なるまは楽しくをあらな。(三四九) (生きているものはついには死ぬものであるから、この世にいるあいだは楽しくすごそう。) には、人間は死するものであるという思想がみえるとともに、来世思想もうたわれていることが注意されます。もとより、この世さえ楽しければ来世は虫や鳥に生まれてもかまわない、というのですから、現世主義であって、来世を欣求《ごんぐ》する思想でないことは明らかですが、それにしても来世をいちおう認めているのです。そうして讃酒歌では、現世享楽《げんせきようらく》主義であって、酒をその点でたたえるのです。賢《さか》しらをすることを非難し、    あな醜《みに》く賢《さか》しらをすと酒飲まぬ       人をよく見れば猿にかも似る。(三四四) とうたって、賢しらに物いうよりは酒を飲んで酔いなきする方がよいとするのです。そうして、人間であるよりは酒壺になりたい、とまでうたうのは現実主義ですが、これも、現実をよりよく生きようとするよりは、現実を刹那《せつな》に過ぎゆくものとみて、生きているあいだは楽しくすごそうとしているのです。 老荘にあこがれる旅人の享楽主義[#「老荘にあこがれる旅人の享楽主義」はゴシック体]  これは老荘の思想の流れですが、現実から逃避して、竹林で酒を飲んですごす竹林の七賢人の生き方をよんだものとみられます。讃酒歌の中にも、    古への七の賢しき人どもも       ほりせしものは酒にしあるらし。(三四〇) (昔の竹林の七賢人たちも、ほっしたのは酒であったろう。) とあります。もとより旅人は、竹林の七賢人の生き方を好み、そういう思想を知識としてもっていたとみられるのですが、かれは大伴家の氏上《うじのかみ》として大伴家の一族をまとめていくために努め、また太宰帥《だざいのそち》その他の官職をつとめる上に、なおざりであったとは思われないのです。部下にも慕われていたらしい点からみて、酒を飲んで職務をかまわなかった人物ではないようです。竹林の七賢人のような生活はしていないのです。 それが、讃酒歌をよんでも生活のにじみ出た深刻な歌とならずに、軽快な、酒宴のさいの即興歌のような歌となったのでしょう。しかし、老荘や竹林の七賢人の生き方を憧憬するような心境は、旅人だけでなく、一部の人にもあったのです。    心をし無何有《むかう》の郷《さと》に置きたらば       はこやの山を見まく近けむ。(三八五一) (心さえ無の境地においたなら、仙人の山を見られるのも近いだろう。) という歌も、その一つの表われです。老荘の思想が根底になっている道教的なものが行なわれたのも中国の思想の影響ですが、そういう思想に心ひかれるものが、万葉時代の生き方の上にもあったためでしょう。 憶良の現実への愛と執着[#「憶良の現実への愛と執着」はゴシック体]  そうして無何有の郷に心を置くというのは、人間の生死をも越える態度ですが、この歌とともに、世間無常の歌二首というのが飛鳥《あすか》の河原寺の仏堂のうちの倭琴面《やまとことのめん》に書かれてあるとあります。    生死《いきしに》の二つの海をいとはしみ       潮干《しほひ》の山をしのびつるかも。(三八四九) (生死の二つの海があるのがいとわしいので、生と死とのない潮干の山を思いこがれることだ。)    世の中の繁き借盧《かりほ》に住み住みて       至らむ国のたづき知らずも。(三八五〇) (世の中の俗塵のしげいかりの庵《いおり》に住むになれて、生死を越えた国にいくてだてもわからない。) では、生死の二つの海を越えた世界をなつかしみながら、そこに至るすべのないことをあきらめているようであります。  そうして、このように生死を超越して、無何有の境地を求める生き方とともに、現実に深い愛着をもち、現実をよりよく生きようとする態度も一方にあります。山上憶良の人生態度はそれです。憶良の「惑へる情を反せしむる歌」は、竹林七賢人風の生き方に対する批判となっています。反歌を見ても、    ひさかたの天道《あまぢ》は遠しなほなほに       家に帰りてなりをしまさに。(八〇一) (天へいく道は遠いのですから、すなおに家に帰って業《なりわい》をなさったがよい。) とあります。人間は天へいくことはできないのですから、現実をすなおに生きゆくべきことを説いているのです。 儒教思想に支えられて終始一貫[#「儒教思想に支えられて終始一貫」はゴシック体]  特に長歌の方で、人倫の道を説いている点に、儒教的な影響があるのです。憶良は遣唐使の下の役の遣唐小録《けんとうしようろく》として渡唐したさいに、張文成の書いた小説、遊仙窟《ゆうせんくつ》をはじめ種々の漢籍を招来しているようですが、儒教の書物もかの地からもってきたかもしれません。しかしこの時代には、孝経を一戸に一部備えるように定められてもいますので、渡唐以前にも儒教を学んでいたでしょう。  憶良はその性格からも、老荘思想よりも儒教思想にひかれたのです。論語にも、生を知らず、それゆえに死を語らずとありますが、これは儒教の態度が、現実の生き方を主として説いていることを語っています。憶良もそういう態度をもって人生に処していこうとしています。それだけに憶良は、現実に対して強い執着をもっているのです。  現実に集まってくる生老・病死・貧などに対する苦しみ悲しみを、多くうたうのです。憶良の貧窮問答は、新しく貧窮という題材を扱って、もっともすぐれた作品形象となっていますし、子らを思う歌や古日《ふるひ》の死を悲しむ歌には、子に対する深い愛情がうたわれ、またその死に対する切々たる悲しみがうたわれています。もとよりそういう死に対する悲しみという点では旅人でも同様ですが、旅人の場合は、讃酒歌における態度とやや矛盾するかにみえます。  憶良は、その点ではすべてが一貫しており、現実に対する愛と執着とが現実における功名をもとめ、また死に対しても深い悲しみとなっています。ただ憶良には、そういう現実に対する愛と執着とが一貫しているだけに、旅人の生き方からすると、泥くさい感じも与えたに相違ありません。 一方は知識、他方は人生のよりどころに[#「一方は知識、他方は人生のよりどころに」はゴシック体]  讃酒歌の前に憶良の、    憶良らは今はまからむ子なくらむ       その彼の母もあを待つらむぞ。(三三七) (この歌「それそのははも」などの異訓があります。) (憶良らは今は退席しましょう。家では子が泣いていましょう。その母もわたしを待っていましょうよ。) があって、「宴をまかる歌」とありますので、土岐善麿氏は、同じ宴席に憶良がこの歌をよんで途中で退出したので、旅人がそれに対して讃酒歌をよんだのではないか、とされていますのは、興味ある説です。宴席の場合にも窮屈にふるまう憶良と、余裕のある態度で酒席にのぞむ旅人とは、二つの生き方を示しています。  旅人の態度には矛盾もあり、また一つのことに徹しない点はあっても、それだけ親しみのあるものであったでしょう。それが両者の作品の相違にもなっています。  いずれにしても、天平時代になると外来思想が入り、それにつれて旅人・憶良のような漢学の造詣《ぞうけい》のあるものは、自ら漢文を書くとともに、老荘思想や儒学思想の影響をうけるに至ったのです。旅人はそれを知識的にうけ入れるにとどまったのですが、憶良は、人生態度の上でもそれをよりどころとしているのです。  ただ、外来思想のうちで、仏教思想がどれほど人生観の上に影響しているかは、注意されるところです。仏教の渡来は、欽明《きんめい》天皇の十三年(五五二年)にはすでにみられ、推古《すいこ》天皇(五九二—六二八)の御代には、聖徳太子《しようとくたいし》によって仏教の経典が講じられ、法隆寺などの寺院も建立されるのです。 仏教はまだ根づいていなかった[#「仏教はまだ根づいていなかった」はゴシック体]  奈良時代には、東大寺をはじめ堂塔|伽藍《がらん》も多く造られ、仏教信仰は隆盛に達します。宣命にも、仏の道の大きな力をたたえて、神の道よりも仏の道を重んずる態度さえみられます。そうして万葉集にも、僧侶をうたい、仏教をよんだ歌もあるのです。  ただ、興福寺・東大寺・西大寺など奈良七大寺の外形的な仏教の隆盛に比べますと、万葉集には東大寺建立の歌もなく、また、人生観として、仏教思想が深く滲透している跡もきわめて少なく、むしろ僧侶を軽んずるような歌がみられるのです。 「戯《たはむれ》に僧を嗤《わら》ふ歌」とある、    法師らがひげのそり杭馬つなぎ       痛くな引きそ法師はなかむ。(三八六四) (この歌異訓もあります。) (法師らがひげを剃っても残っている杭に馬をつないで強く引っぱるな。そんなことをすると法師は泣こうから。) のように檀越《だんおち》が法師を嘲笑すると、法師が報いて、    檀越や然もな言ひそ里長《さとをさ》が       えつきはたらば汝《いまし》もなかむ。(三八四七) (檀越よ、そんなことをいわれますな、里長が賦役を要求しましたら、あなたも泣くでしょうから。) とうたっています。これは軽い気持ちでうたった歌ではありますが、僧侶が深く信仰されたとはみがたい歌です。前にあげた「生死の二つの海をいとはしみ」(三八四九)のような歌もありますが、全体として、仏教が人生観の根底になるような意味で、万葉人の生活の中に融合していなかったとみてよいでしょう。 しかし万葉人一般は主情的であった[#「しかし万葉人一般は主情的であった」はゴシック体]  このように万葉時代には、老荘思想や儒教思想や仏教思想によって、その人生観も豊富にされた点はありますが、それは当時における知識階級の一部に止まったとみられるのです。そういう外来思想の影響が現われてきた以前はもとより、その影響が一部にみられるようになってからも、多くの万葉人は純粋抒情的に愛と死とをうたい、その中に人生の哀歓を表わしているのです。  もとより純粋抒情的といっても、万葉時代の前期には泣血哀慟《きゆうけつあいどう》というような激情的なことばが題詞《だいし》にみられるのに対して、後期の家持の歌の題詞や左注には、「旧に別るるの悽《かなし》み心中に欝結す」「悽惆《せいちう》の意歌にあらずんば撥《はら》ひ難き耳《のみ》」のような情趣的なことばがみられ、心情の複雑となってきたことが認められます。しかし、全体としては詠嘆的主情的に人生の哀歓をうたった点に、その歌の特質がありますが、ここに万葉人の生き方もあったとみられるのです。  万葉時代にも無常を感じた歌はありますが、それは詠嘆的無常感であって、中世におけるような、無常の世をいかに生きるかを観じた無常観にまでは至っていない、というべきでありましょう。 [#扉3(chapter3.jpg)]  3 万葉集と風土 [#小見出し] 〈1〉山間的性格 歴史的地盤につながる大和の自然地理[#「歴史的地盤につながる大和の自然地理」はゴシック体]  万葉集と風土とは深い関係があり、種々の方面から扱いうるのですが、ここでは、万葉集の風土的地盤としての大和《やまと》、という点から考察し、作品の上にどのように形象化されているかをみたいと思います。  もとより、万葉集によまれている地名の中で、大和の地名がもっとも多いのは、万葉集の歌のよまれた時代が、主として大和に都をおいたからであり、したがって、大和は万葉集の風土的地盤であっただけではなく、歴史的地盤にもなっているのです。ただここでは風土的な方面に中心をおいてみるのです。  といっても、山や川や池などは風土としてだけみられるようですが、具体的に畝傍《うねび》山や、香具《かぐ》山や、吉野山や、飛鳥《あすか》川などをあげると、風土的もしくは自然地理的だけでなく、歴史と結びついてきます。また、都や、交通路になると、自然に存在しているのではなく、人間の作り出した点が加わっています。飛鳥の都、奈良の都といえば、風土的な場とともに、歴史的な場ともなっています。飛鳥路や、山辺の道にしても、都に比べると自然地理的ですが、人間の交通の場として成立しているとすれば、歴史的、少なくとも人文地理的な意味をもってくるのです。  それで、風土的地盤といっても、純粋に自然地理的な意味だけではなく、歴史的な地盤と結びつき、関係している方面をもとりあげてみたいのです。風土的地盤の中でも、自然地理的な山や川や池などと、万葉集の歌との関係をはじめにのべ、つぎに、歴史的地盤ともつながっている、都や交通路と万葉集との関係を考えていくことにしたいのです。風土としては、大和の季節と万葉集との関係をみるべきですが、それはここでは略します。  ただわたしは、万葉集によまれた大和の土地を歩くことは多年ですが、そこに住んだことはないので、その点、旅人としての域から脱しえないでしょう。 [#地図(fig058.jpg)] 山間を中心に、水辺が点景[#「山間を中心に、水辺が点景」はゴシック体]  わたしは文学の風土的地盤の上から、日本文学を山間文学と水辺文学とにわけ、さらに水辺文学を海辺文学・河畔《かはん》文学・湖畔文学とにわけてみることを試みているのですが、この見地からしますと、大和の文学は、京都の文学や信州の文学とともに、山間文学ということになります。つまり大和は、山城や信州と同じく海に接しない、山間の地域であるからです。「大和には群山《むらやま》あれど」(二)とあるように、周囲が山に囲まれており、どの地域へ出るにも、山を越えなければなりません。  全体が山間地域である上に、その中でも南方の半ば、北方の東部は山になっています。盆地をなす中央部にも、畝傍山や、香具山や、耳成《みみなし》山が並立しているのです。こういう大和においてよまれた万葉集も、全体としては山間文学といえましょう。  もとより万葉集には大和以外でよまれた歌も多くありますが、なんといっても大和でよまれた歌が多く、大和を中心として東は伊勢から東海道を経て東国にのびており、北は山城・近江から越中の方に及んでいます。西は摂津から中国地方を経て九州にのびており、南は紀伊国になっています。また、大和の中にも、吉野川をはじめ川は多く、池もあり、水辺文学の一面はありますが、大阪文学や江戸文学が水辺の地域を中心とするのに対して、水辺的性質はその一面にすぎないのです。山間を中心として、水辺が点景になっているのであります。 からっと明るくさわやか[#「からっと明るくさわやか」はゴシック体]  そうして、山間地域としての大和と山城とでは共通性もあるのですが、山城、ことに京都の風土が、水が豊かで潤いがあるために、山紫水明的性質を有するのに対して、大和の風土は湿度が少なく、それだけ乾燥しているのです。そのために明るくさわやかな感じがあります。この点は万葉集の歌の特質にもなっています。京都文学に比べて大和文学は年代も古く、それだけ素朴であって感情の陰影がない点もありますが、それには風土の影響もあるとみられます。  いずれにしましても大和文学を代表する万葉集が、このような大和の山間的風土であることを反映していることは明らかであります。  もとより、大和は山間の地域ですけれども、その中に吉野川・飛鳥川・初瀬川・佐保川などがあって、川の美も一方にもっており、昔は埴安池《はにやすのいけ》などもあって、池畔の美もあります。また、大和を第一の風土圏として、西には摂津にひろがって難波の海があり、南には紀伊を経て紀伊の海があり、東は伊勢を経て伊勢の海があり、北には山城を経て近江の琵琶湖があり第二の風土圏をなしております。さらに第三の風土圏として、西には瀬戸内海があって、さらに九州の海につづき、北は北越を通って日本海辺があり、東は東海道を通って太平洋岸に接します。そうして、山間と水辺とは結びついて風土の美を形成するのですが、万葉の風土としては、大和の山間風土が中心をなしているのです。 周囲の山々は信仰の対象として仰がれる[#「周囲の山々は信仰の対象として仰がれる」はゴシック体]  風土としての山は、地上から高くそびえているために、山間文学には超現実的な性質が多く、それは孤高の性質をともなうことになってきます。その点から宗教的性格をおびることにもなります。美としては壮美が中心となります。  水辺文学が現実的で都会的であり、遊楽的であるのと相違があります。そういう水辺文学の特質が最もよく表われているのは河畔文学です。海辺文学は川ほど流動的でなく、茫洋《ぼうよう》としています。湖畔文学になると、川のように流動的でなく、海のように茫洋としていない。それは沈潜的です。そして、万葉集が風土的に山間文学であることは、万葉集の性格をも規定しているのです。  では、万葉集にうたわれている大和の山はどのような性格をもっているかというと、まず、群山としてうたわれている場合があります。「大和には群山あれど」(二)がそれで、大和の周囲は、東西南北すべて山でかこまれています。その上に大和盆地には畝傍山・香具山・耳無山の三山が並立しており、北大和には三輪山もあります。弓月嶽《ゆずきがたけ》・巻向《まきむく》山・穴師《あなし》山・多武峯《とうのみね》・倉橋《くらはし》山・二上《ふたがみ》山・吉野山と数えていくと、万葉集にうたわれている山の数も多く、これらが大和の風土を形づくる上に大きな役割をなしています。  そうして、万葉集に現われているこれらの山は、風景としての山の美しさもありますが、同時に信仰の対象、もしくは信仰の場としての山の性質をもつ場合が多いのです。 山を擬人化し霊化してよむ[#「山を擬人化し霊化してよむ」はゴシック体]  風景としての山は、柿本人麻呂歌集にある、    足引の山河の瀬のなるなへに       弓月が嶽に雲たち渡る。(一〇八八) (山河の瀬がなると同時に、弓月が嶽に雲が一面に立ってくる。) のような、雄大な美をうたった歌が多いし、そういう歌にすぐれたものがあります。もとより、同じ弓月が嶽をうたった人麻呂歌集の中には、    長谷《はつせ》の弓月がもとにわが隠せる妻あかねさし       照れる月夜に人見てむかも。(二三五三) (長谷の弓月が嶽のふもとにわが隠している妻よ。(あかあかと)照っている月夜に人が見ているであろうか。) のような相聞歌の背景としてよまれた場合もあります。いずれにしても、こういう場合は、自然の山としてうたわれているのですが、山を人間化、もしくは霊化してうたうと信仰的な意味をもってくるのです。  三山をうたった歌「香具山は畝傍を愛《を》しと耳無と相争ひき」云々(一三、一四)になると、妻争いの説話となっています。これは山の擬人化ともいえますが、また、山に人間と同じ心と愛とを見出している意味で、山を霊化しているともみられるのです。三山の並立しているのをみますと、そこに人間的なものを想像してくるのも、自然の連想でありましょう。 美をたたえ神の場としてあがめる[#「美をたたえ神の場としてあがめる」はゴシック体]  香具山も、持統天皇(六八六—六九七年在位)の、    春過ぎて夏来るらし白妙の       衣ほしたり天の香具山。(二八) (春が過ぎて夏がきたらしい。香具山に白い衣をほしてあるから。) では、初夏のころの自然のままの山としてうたわれていますが、一方では、その山に、人間としての心情を感じるのです。三輪山や、雷《いかずち》岳になると、神の場として多くうたわれています。三輪山は北大和にある山で、山辺の道にそっており、円味を帯びた美しい山で、万葉の人々は、飛鳥地方から山城や近江に出るには、これを見ながら通ったでありましょう。 「額田王《ぬかだのおほきみ》近江の国に下る時よめる歌」とある、    うま酒 三輪の山 青丹よし    奈良の山の    山のまに い隠るまで 道の隈    い積るまでに    つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見さけむ山を    情《こころ》無く 雲の隠さふべしや。(一七) (三輪の山が奈良山の山のあいだに隠れるまで、道のまがりかどが重なるまで、くわしくみていきたいのですが、しばしばふり仰いで見たい山であるのに、無情にも雲が隠すということがありましょうか。)    反歌    三輪山を然《しか》も隠すか雲だにも       情《こころ》有らなもかくさふべしや。(一八) (三輪山をそのように隠すものか。雲だけでも情があってほしい。それが隠すということがあろうか。) の歌をみても、三輪山に対する愛着の情がよく表われています。  もとより、三輪山に対する感情は、山の美をたたえるだけではなく、三輪神を祀《まつ》る山としての信仰の心もあるでしょう。三輪山全体が神の山であります。しかも三輪神は三輪山伝説によっても知られるように大物主《おおものぬし》神であり、人間に姿を変えて三輪の山もとの女性の所に通う神であります。神としても民衆に親しまれています。そういう神の座《いま》す山としての信仰の心もあったでしょう。  この点では雷岳にしても同様です。ただ、雷岳はその所在に種々の説があります。飛鳥にあり、飛鳥川のそばにある山とみる説が、ふつう行なわれていますが、小さい山で、「天皇|雷《いかづち》の岳に御遊ばしし時、柿本|朝臣《あそん》人麻呂よめる歌」と題詞のある、    大君は神にしませば天雲の       雷の上に廬《いほ》らせるかも。(二三五) (天皇は神でいられますから、天雲の上にそびえる雷の上に廬りをされています。) の歌によまれた雷岳にふさわしくないとみる説もあります。北島葭江氏の『万葉集大和地誌』に「飛鳥川の上流南淵山に在ったという波多御井《はだみい》神社を当てて、神名帳に伊吹雷響雷《いぶきいかずちなるいかずち》、大国栖御魂《おおくにすのみたま》二座、波多瓶井《はだみかい》神社という二社を波多御井社と総称したと大和志料に記して居る」とあるのは興味ある説であります。  この点については種々考えられますが、雷岳は、山の景観を愛されただけではなく、神の山として信仰されたことは明らかでありましょう。したがって、ただ小さくて威容がないからといって否定することもできないと思います。 三輪山も雷岳も“神のいる山”[#「三輪山も雷岳も“神のいる山”」はゴシック体]  それに関連して、「神岳に登り山部|宿禰《すくね》赤人よめる歌」としてある、    三諸の 神名備《かむなび》山に 五百枝《いほえ》さし 繁《しじ》に生ひたる(三二四) (神のます山にしげくはえている) にある「三諸の神名備山」は、同じ歌の中に「明日香の旧き京師《みやこ》」とあったり、反歌に「明日香川川淀さらず」とあったりして、明日香川を見わたす所に所在するようにみられるので、これを雷岳とすることも考えられます。これに対しては甘橿岳《あまかしのおか》をさしているとする説もあります。 「三諸の神名備山」は神のいる山で、ある特定の山をさすのではなく、具体的には神山をひろくさしたのでしょう。雷岳も三輪山も神なび山であったのでしょう。 「みむろの」または「みもろつく」とある歌では、    みもろのその山なみに児らが手を       巻向山につぎのよろしも。(一〇九三) (みもろの山とならんで、巻向山がつづいてあるのはよい。)    わが衣服《ころも》色に染めなむうま酒       三室の山は黄葉《もみぢ》しにけり。(一〇九四) (わたしの衣を色に染めたい、三室の山は黄葉した。) など、柿本人麻呂歌集の歌としてあります。    みもろつく三輪山見ればこもりくの       泊瀬《はつせ》の檜原《ひばら》念ほゆるかも。(一〇九五) (三輪山を見ると、泊瀬の檜原が思われることだ。) という歌もありますが、これらは神の山として三輪山をさしているのです。「みもろの神なび山」は、神の山として、普通名詞として用いられたのでしょう。「天降りつく天の香具山」は、神が天から降りてきた意味になります。 吉野山も二上山さえも[#「吉野山も二上山さえも」はゴシック体]  吉野山にしても、自然地理的な山としてだけでなく、信仰的な意味があります。持統天皇がたびたび吉野に幸《みゆき》されたのは、吉野の風光をめでられる意味もあったのでしょうが、信仰の意味が主であったと思われます。  吉野宮に幸されたときに人麻呂のよんだ歌(三八)では、山神のまつる御調《みつぎ》として春は花を咲かせ、秋は黄葉をかざし、川の神も天皇に大みけを奉るとして、上つ瀬に鵜《う》川をたて、下つ瀬に小網《さで》さし渡し、山川ともに、天皇に仕える、とよんでいますが、天皇もまた吉野の山に対して信仰されるお心持ちがあったのではないでしょうか。  謀反《むほん》の疑いによってなくなられた大津皇子を、二上山《ふたがみやま》に移葬されたことは、姉君|大来《おおくの》皇女の、    うつそみの人なるわれや明日よりは       二上山をいもせとわが見む。(一六五) (現世の人であるわたしは、あすからは二上山を兄弟の山として見ましょう。) の御歌の題詞に、 「大津皇子の屍《しかばね》を葛城二上山に移し葬るの時、大来皇女かなしみてよみませる歌」 とあるのによって明らかですが、一度葬られたのを、なぜ、二上山上に移葬されたのでしょうか。  この点は、かつて二上山に登って大津皇子の御墓にもうでたとき感じたことでありましたが、罪をえてなくなられた大津皇子をはばかり、敬遠する意味があったかとも推測されなくはありません。しかしまた、山に葬ることによって、信仰の対象として仰ぐ意味があったのではなかろうかと、その当時感じたのでした。ただ、移葬されたのは、なくなられてから間近いときであったようですから、前者の意味の方が主であったかもしれませんが、後者のような推測も必ずしも否定できないように思います。  大和において山々を仰ぐとき、自然の風景としての山であるとともに、すべてが神山であると信じたのが、上代人の山についての考えではなかったかと思われるのです。 [#小見出し] 〈2〉点景としての水辺 山の永遠性と対立する川[#「山の永遠性と対立する川」はゴシック体]  万葉集の風土的地盤としては、山間的性格が中心をなしているのですが、川や池もないではありません。しかし、川といっても山間を流れる川であり、山と結びついた川であります。  赤人の神岳の歌にも、    明日香の 古き都は 山高み 河とほじろし    春の日は 山し見がほし 秋の夜は 川しさやけし(三二四) (飛鳥の古い都は、山が高く河が雄大に流れている。春の日は山が見たくなる。秋の夜は川がさやかだ) とあり、人麻呂が、吉野宮に幸されたとき供奉した歌にも、山と川とを対比してうたっているのです。山を中心とし、川を点景として景が成り立つのです。  吉野川や泊瀬川も山の点景として多くうたわれています。飛鳥川も雷岳の裾を流れている点では同様ですが、ただ飛鳥川は流域の上で変化の多い川としてうたわれている場合が多く、景における点景としてよりは、山の永遠性に対して、変化の相としてうたわれているのです。 「故郷《ふるさと》の豊浦寺《とよらのてら》の尼、私の房に宴する歌」に、    明日香河|逝回《ゆきた》む岡の秋萩は       今日|零《ふ》る雨に散りか過ぎなむ。(一五五七) (飛鳥川が、まわりを流れている岡の秋萩は、きょうふる雨に散りすぎることでしょう。) とあるのは、川が岡を迂回《うかい》して流れるさまをうたったのでしょうが、きのうの淵はきょうの瀬となるように、流域や川の状態の変わりやすい川としてもうたわれているのです。 ゆくえも知らぬ流れ[#「ゆくえも知らぬ流れ」はゴシック体]  これは、飛鳥川(明日香ともあるが飛鳥にこの文では統一)が特殊な状態であったのかもしれませんが、全体として山に対比すると、川の変わりやすい点が指摘されるのです。人麻呂の、    もののふの八十宇治川の網代木《あじろぎ》に       いさよふ波のゆくへしらずも。(二六四) (宇治川の、網の代わりに水をせくためにたてた木に当たってたゆとう波は、どういくかわからない。) は、こういう川の観念と結びついています。もとより、この歌から無常観を引き出してくることは、必ずしも肯定されないのですが、「いさよふ波のゆくへしらずも」の表現に、流動するもののさまを思ったということはいえるでしょう。この点にまでなると、山間の川に限らず、川一般の性質とみられますが、全体として、風土的には、大和における川が山間の川として、山の点景をなしていることが指摘されます。 煙が立ち、かもめが飛び立つ[#「煙が立ち、かもめが飛び立つ」はゴシック体]  なお大和には湖はありません。しかし池はあって、埴安池《はにやすのいけ》がうたわれています。前にも述べたように、湖や池は、水辺の地域としては、川と異なって沈潜的であり、それだけ山のもつ不動性と通ずるものがあるのです。「天皇香具山に登り国を望まるる時よみませる歌」にある、    天の香具山 のぼりたち 国見をすれば    国原は 煙立ちたつ 海原は かまめ立ちたつ。(二) (天の香具山にのぼり立って国を見渡すと、国原に煙がたっている。海原にはかもめがたくさん飛び立つのが見える。) の海原は、どこをさしているのか、種々の説があり、難波の海とする説さえありますが、かつて香具山の近くにあった埴安池とみるのが穏当でしょう。舒明天皇が山上から国見をされた場合に、埴安池に飛び立つかもめを見られた、趣の深い光景です。 芭蕉に通じる静寂美への出発点[#「芭蕉に通じる静寂美への出発点」はゴシック体]  埴安池については高市皇子の薨去をいたんでよんだ人麻呂の歌の反歌の、    埴安の池の堤のこもりぬの       ゆくへを知らに舎人《とねり》はまどふ。(二〇一) (埴安池の堤の、水草で隠れた沼の中がわからないように、高市皇子が亡くなられて、どうしていいかわからないので舎人は途方にくれている。) をはじめ、しばしば歌によまれています。  そうして、池としては名もない池ですが、山部赤人が故太政大臣藤原家の山池をよんだ、    古へのふるき堤は年深み       池のなぎさに水草生ひにけり。(三七八) (古のふるい堤は、年が長く経ったので、池の水ぎわに水草がはえている。) には、山池のもつ静寂さが感じられるのです。故藤原|不比等《ふひと》をいたむ思いもありましょうが、山池の沈静した点をとりあげているところに、後の芭蕉までつづく静寂美の系譜の出発がみられるのです。  このようにして、山間地域としての大和は、山の性格をもちながら、川や池をもつつんで、独自の風土となっており、それが万葉集の歌に反映しているのです。 [#小見出し] 〈3〉大和の都と万葉集 一代ごとに行なわれた都うつり[#「一代ごとに行なわれた都うつり」はゴシック体]  つぎに大和の都と万葉集との関係をみていきましょう。  万葉時代の都は、だいたい大和に存在しています。風土的にいうと、都は純粋に自然地理的な存在ではなく、歴史的性質をももっているのです。それだけに、文学の形成力も大きいといえましょう。万葉時代といっても、年代の知られる点からいうと、仁徳天皇(三一三—三九九年在位)の御代から歌がみられますが、主としては舒明天皇(六二九—六四一年在位)の御代からです。  それ以後も、都はだいたい大和国内にありますが、孝徳天皇(六四五—六五四年在位)の御代に難波に都されたことがあり、天智天皇(六六一—六七一年在位)・弘文天皇(六七一—六七二年在位)の御代には、近江に都されています。また聖武天皇(七二四—七四九年在位)の御代には、奈良の都の盛りをうたわれていますが、山城の久邇京に都を遷そうとし、また難波の京も候補に上っており、この三所のいずれに都を定めるかには、種々の議論があったようです。  万葉時代以前には、磯城《しき》の瑞籬《みずがき》宮や、纏向《まきむく》の日代《ひしろ》宮や、磐余《いわれ》の稚桜《わかざくら》宮や、石上の穴穂《あなほ》宮や、泊瀬《はつせ》の朝倉宮、その他三輪山・泊瀬山の周辺ともいうべき北大和の地域に都があり、一代ごとに都を遷されたのは、山間のせまい地域として都の規模も小さく、国家の体制も簡単であったことを示しています。 大規模な奈良の都と聖武天皇[#「大規模な奈良の都と聖武天皇」はゴシック体]  飛鳥に都の定められるに至った推古天皇(五九二—六二八年在位)のころは、氏族としての蘇我氏が帰化人と結び、仏教をとり入れることと相まって都の規模も大きくなり、中部大和に進出されたのでしょう。中大兄皇子が中臣鎌足とはかって蘇我氏を滅ぼされたのは、帰化人の羈絆《きはん》から解放されることになったとともに、その圧迫から離れるために、近江に都を遷されたともいわれています。  そのような点が動機になったのでしょうが、さらに近江の琵琶湖畔(特に近江神宮のあたり)に立って展望すると、湖が広く海のように見えます。唐代の文化をとり入れて、大化の改新を行なった中大兄皇子は、琵琶湖に、難波海にも近い海辺性を感じられ、山間地域である大和から都を遷されたこともあるかもしれません。  天武天皇(六七三—六八六年在位)の御代に再び飛鳥に都を遷され、さらに持統《じとう》天皇(六八六—六九七年在位)の御代に藤原宮に遷されましたが、これは飛鳥に近い地域です。ついで元明天皇(七〇七—七一五年在位)の御代に、奈良に都を遷されたのは、都の規模の大きくなるにつれての遷都でありましょう。ことに、奈良の都の規模の大きさは唐の都の長安の規模にならったとみられます。  ただ聖武天皇の御代に、久邇京や難波京の遷都が行なわれようとしたのは、どういう理由でしょうか。『続日本紀』には、久邇・難波の遷都について種々の記述があります。 恭仁宮・難波宮・紫香楽宮[#「恭仁宮・難波宮・紫香楽宮」はゴシック体]  それによりますと、天平十二年(七四〇年)十二月|戊午《つちのえうま》(六日)の条に、「是《こ》の日右大臣、橘宿禰諸兄《たちばなのすくねもろえ》前に在りて発す。山背国《やましろのくに》相楽郡《さがらきこほり》恭仁郷《くにのさと》を経略す。遷都を擬するを以ての故なり。」とあり、丁卯《ひのとう》(十五日)の条に、「皇帝前に在り、恭仁宮《くにのみや》に幸す。始めて京都と作《な》す。」とありますから、このころに遷都のことが定められたのでしょう。  翌十三年正月一日には、「天皇始めて恭仁宮に御し朝を受く。宮垣未だ就らず。纔《わづ》かに帷帳《ゐちやう》を以てす。」とあります。十一日には、伊勢大神宮や、七道諸社《しちどうのしよしや》に幣《へい》を奉って、新京に遷《うつ》ることを告げています。  そうして天平十五年(七四三年)の十二月の条に、「初め平城|大極《だいごく》殿並に歩廊《ほらう》を壊《こぼ》ちて恭仁官に遷造《うつりつく》ることここに四年、其功を纔に畢《をは》る。」とありますから、十五年までは恭仁宮の完備に力をそそがれたようであり、新都は整備されたのでしょう。しかしそのあとに、「用度費す所、計るにたふべからず。是に至り更に紫香楽宮《シカラキノミヤ》を造る。仍《よつ》て恭仁宮造作を停む。」とありますから、新都造営の困難なことが認められてきたのでしょう。  天平十六年(七四四年)閏正月の一日には、詔して百官を朝堂に会し、「恭仁難波二京の何くを定めて都と為ん。各其志を言へ。」とあります。それに対して恭仁京の便宜をのべるものは五位已上のものが二十四人、六位已下のもの百五十七人であり、難波京の便宜をのべるものは五位已上二十三人、六位已下百三十人、とありますから、恭仁京の方がやや多いのですが、それほど開きはありません。 新都恭仁京に地震が連日[#「新都恭仁京に地震が連日」はゴシック体]  ついで正月四日には、巨勢《こせ》朝臣|奈弖麿《なでまろ》と藤原朝臣|仲麿《なかまろ》とを遣わして、市で京をどこに定めるかを聞かせますと、市人はみな恭仁京を以て都となさんことを願いました。中に、難波を願うものが一人、平城を願うものが一人あったとあります。こうして恭仁京を都とすることは確認されたようですが、難波に都をしようとする機運もあったとみられ、同年の二月二十一日には恭仁京の百姓が難波宮に遷ろうと請願するものは恣にこれを聴すとあり、二十六日には勅を下されて、「今難波宮を以て定めて皇都と為す。宜しく此状を知り、京戸の百姓意に任せて往来せよ。」とあります。  このようにして難波に都を定めることになったとみられますが、それがどの程度行なわれたかはっきりわかりません。恭仁の都もそのままになっていたとみられます。  しかし、十七年(七四五年)になると、再び奈良(寧楽)に都を定めるという機運になってきました。それは、五月になって地震がしきりに起こったことも、一つの原因でしょう。すなわち天平十七年五月一日に地震があり、二日には、「是の日、太政官諸司官人等を召して問ふ。何処を以て京と為ん。皆言ふ、平城を都とすべし。」とあります。三日も地震があったので造宮輔従四位下|秦公嶋麿《はたのきみしままろ》をして恭仁宮を掃除せしめたとあります。  新都は地震が多く、そのことで再び、都をどこにするかについて意見があったのでしょうか。四日にも地震があり、大膳《だいぜん》大夫|栗栖《くるす》王を平城の薬師寺に遣わし、四大寺の衆僧を集めて、いずれの所を京とすべきかを問わせています。「僉《みな》曰ふ。平城を以て都と為すべし。」とあります。 聖武天皇再び都を奈良へ[#「聖武天皇再び都を奈良へ」はゴシック体]  九日に車駕《しやが》が恭仁京の泉橋に至りますと、百姓ははるかに車駕を望み、道の左に拝謁《はいえつ》して、ともに万歳を称したとあります。都を再び奈良に遷すことが有力になったのでしょう。  十日には、「恭仁京の市人平城に移る。暁夜争って行き相接し絶ゆるなし。」とあります。思うに、連日地震が絶えないのを、恭仁京に都を遷されたのが原因であると考えられたのでしょう。このようにして再び寧楽の都となって、恭仁京は荒廃するのです。  この経過は万葉集巻六に、大伴家持や田辺|福麻呂《さきまろ》によってうたわれています。 「十五年|癸未《みずのとひつじ》の秋、八月十六日、内《うち》舎人《とねり》大伴宿禰家持|久邇京《くにのきやう》を讃へてよめる歌一首」 と題詞のある、    今造る久邇の都は山河の       清けき見ればうべしらすらし。(一〇三七) (いま造っている久邇の京は、山河の清いのを見ると、なるほどここを都としてしろしめされるのがよいでしょう。) の歌は、久邇京(続日本紀では恭仁京とある)の遷都がほぼ成った天平十五年(七四三年)の歌です。 都の荒廃を悲しむ歌[#「都の荒廃を悲しむ歌」はゴシック体] 「寧楽の京の荒れたる墟《あと》を傷《いた》み惜しみてよめる歌三首」としてある、    紅に深く染みにし情《こころ》かも       寧楽の京師《みやこ》に年のへぬべき。(一〇四四) (紅に深く染まったように深く染みついた情であるよ。奈良の都に年月のたったことであろう。)    世の中を常無きものと今ぞ知る       平城の京師のうつろふ見れば。(一〇四五) (世の中は常ないものと今わかった。奈良の都が荒廃していくのを見ると。)    石綱《いはつな》のまたをち返り青丹よし       奈良の都をまた見なむかも。(一〇四六) (また帰って、奈良の都を見ることであろう。) は、作者不審とあり、それぞれ寧楽・平城・奈良と三様の書き方をしているので、別々の人によってよまれたのかもしれませんが、奈良の荒廃したさまがうたわれているのは、天平十五年のころの歌でしょう。  福麻呂集にあると左注にある歌にも、「寧楽の故郷を悲しみてよめる歌一首ならびに短歌」(一〇四七、一〇四八、一〇四九)のように寧楽の荒廃したのを悲しんだ歌、「久邇の新京を讃へる歌二首ならびに短歌」(一〇五〇、一〇五一、一〇五二、一〇五三、一〇五四、一〇五五、一〇五六、一〇五七、一〇五八)のように、久邇新京をたたえた歌がありますが、これらは天平十五年のころの歌でしょう。それについで、「春の日に三香原《みかのはら》の荒れたる墟を悲しみ傷みてよめる歌一首ならびに短歌」(一〇五九、一〇六〇、一〇六一)と久邇京の荒廃を傷んだ歌は続日本紀の記述と比較しますと、天平十七年ごろの歌でしょうか。 なぜそんなに遷都が行なわれたか[#「なぜそんなに遷都が行なわれたか」はゴシック体]  それについで、「難波《なには》の宮《みや》をよめる歌一首ならびに短歌」(一〇六二、一〇六三、一〇六四)とあるのは、久邇京とともに都の候補地になった難波京をよんだともみられますが、そうすると、天平十六年ごろの作になります。しかし、難波宮の歌は、新都としてよんだ詞句はみえませんから、それとは関係のない歌ともみられます。  いずれにしても、天平十二年から十七年にかけて、奈良から久邇京や難波京へ、都遷りのことがあったことは、続日本紀の記事と万葉集の歌とを比較してよめば、相当に重要な事件であったのであり、一時は奈良の京も荒廃に近くなったとみられるのです。  聖武天皇の御代にこのように遷都のことが起こったのは、どのような理由によるものか、明らかではありませんが、ある説のように、奈良に水が乏しいことも一つの理由であったかもしれません。それは容易に定め難いのですが、天平の御代にこのような遷都が行なわれたことは、奈良に都を定められる前に、大和国内でたびたび都遷りが行なわれたことと合わせて、興味ある問題です。 遷都と文学とは大きな関係[#「遷都と文学とは大きな関係」はゴシック体]  そうして聖武天皇の御代における文学を考察する場合にも、遷都のことは大きな関係があるのです。大宰少弐《だざいのしように》小野老のよんだ、    青丹よし寧楽の都は咲く花の       にほふが如く今盛りなり。(三二八) (奈良の都は咲く花の咲きにおうように今が盛りである。) という歌は、奈良の都のさかえゆくさまをうたっていますが、遷都の行なわれたことを思うと、一つの限定をおいて考えるべきかもしれません。同じ天平の御代に、「寧楽《なら》京の荒れたる墟《あと》を傷み悲しみてよめる歌」という題でよまれているのです。「寧楽の故郷を悲しみてよめる歌」という題の長歌の反歌には、    名つきにし奈良の都の荒れゆけば       出でたつごとに嘆きしまさる。(一〇四九) (名のある奈良の都が荒れていくと、出かけるごとに嘆きがます。) とあります。しかしこのような状態から、再び奈良の都が興されたとき、小野老の歌はよまれたのかもしれません。  都はそのときの政治の中心地であり、歴史的性格が多いのですが、また、その場所としては風土的性格があります。奈良の都という言葉の中には、大和の風土が結びついてきます。万葉集における都は、このような歴史的性格と風土的性格とが結びついているのです。 [#小見出し] 〈4〉大和の交通路と万葉集 他国への道はすべて山越え[#「他国への道はすべて山越え」はゴシック体]  つぎに、大和の交通路と万葉集の歌との関係をのべましょう。  交通路としてみると、大和の西境の草香越《くさかごえ》・生駒《いこま》越や大坂越があり、また龍田越や当麻《たいま》路越(これも大坂越)があって、河内との交通はもっとも頻繁でした。東境の、鈴鹿山脈を越えたり、布引《ぬのびき》山脈を越えて、伊勢の方へ行く南と北との道がありました。また、古くからある山辺の道のような、南北に貫く道がありましたが、ほかに飛鳥時代に上《かみ》つ・中つ・下つの三道がしかれ、下つ道は後に奈良、つまり平城京南の正道となって、その上に朱雀・羅城門が築かれたのです。  こういう交通路は、自然地理的な性質もありますが、人文地理的な性質が多いのです。山道などは、けだものなどが通ることから交通路となる場合もありましょうが、それにしても人間が通ってはじめて道となるのです。こういう交通路をうたった歌は多くあります。  柿本人麻呂が妻の死後に泣血哀慟《きゆうけつあいどう》してよんだ歌に、    わぎも子が やまず出でみし 軽の市に わが立ち聞けば    玉だすき 畝傍の山に なく鳥の 声も聞こえず    玉桙《たまぼこ》の 道行く人も 独だに 似てしゆかねば(二〇七) (わが妻が絶えず出て見た軽の市に、わたしが立って聞くと、畝傍の山に鳴く鳥の声も聞こえず、道行く人もひとりだけでも似てゆかないから) とあるのも、上に述べた山辺の道の南部、軽の市を通る人の群れが目に見えるようです。 国境の峠越えに覚える深い感慨[#「国境の峠越えに覚える深い感慨」はゴシック体]  吉備津采女《きびつうねめ》の死のときに、柿本人麻呂のよんだ歌の反歌に、    ささなみの志我津の子らがまかり道《ぢ》の       川瀬の道を見ればさぶしも。(二一八) (志我津の子が退出して通るまかり道の川瀬の道を見るとさびしい。) にも、葬いの行列のいくのをうたってさびしさが表われています。  役民の歌には、近江の田上山から、藤原宮造営のための材木を運ぶ道筋がうたわれているのは水路ですが、興味深いことです。  ことに交通路として国境の峠道を越える歌に感慨の深いものがあります。万葉集では、大和から龍田山を越えて難波の方へ出たときの歌は多くあり、「春三月、諸卿大夫等難波に下れる時の歌二首ならびに短歌」(一七四七—一七五〇)や、「難波に宿りて明くる日還り来る時の歌一首ならびに短歌」(一七五一、一七五二)には、桜の花のころに龍田越をして帰ると、花がもう散るのを惜しんでいる心情がよく表われています。    白雲の 立田の山を 夕ぐれに 打越えゆけば    滝の上の 桜の花は さきたるは 散りすぎにけり    ふふめるは 咲きつぎぬべし(一七四九) (白雲の立つ、立田の山を夕ぐれに越えていくと、滝の上の桜の花は、咲いたのは散りすぎた。つぼみになっているのは咲きつぐことであろう。) などの詞句にも、山越えと桜花の開落の関係がよくうたわれています。 いまも険しい当麻路《たいまじ》越[#「いまも険しい当麻路《たいまじ》越」はゴシック体]  当麻越については、記紀の履仲《りちゆう》天皇巻にある、    大坂に遇ふや処女《をとめ》を道とへば       ただには告らず当麻路をのる。 (大坂で会いました、その会った少女に道を聞くと、ただいうのみでなく、当麻路と名のる。) の歌が注目されます。わたしも十数年前二上山へ登ったとき、当麻寺の方から登りましたが、それはかなり険しい道でした。龍田越は、現在の龍田神社の南を大和川の北岸に沿い、雁多尾《かりんだお》を越えて、河内の高井田に出る道です。さらに大和から紀伊へ越えるには、真土《まつち》山を越えて、角田《すみだ》河原のあたりを過ぎていくのであり、かつて、一駅を下車して歩いてみたことがあります。  弁基《べんき》の、    真土山夕越えゆきて廬前《いほざき》の       角田河原にひとりかもねむ。(二九八) (真土山を夕べに越えていき、廬崎の角田川原でひとりとまろう。) という歌は、真土山越をよく表わしています。  真土山を越えると、他国へ出たという感慨が深かったのでしょう。ここで、疑問として残る、大和の真土山と角田川、武蔵の待乳山と隅田川については、9の章の「武蔵野の万葉」のところでのべたいと思います。 山城への奈良山越や伊勢に出る道[#「山城への奈良山越や伊勢に出る道」はゴシック体]  大和から山城へ出るには、奈良山を越えていったのでした。この山越えにしても、 「長屋王馬を寧楽山に駐めてよめる歌二首」によると、    佐保過ぎて寧楽の手向に置く幣《ぬさ》は       妹を目かれず相見しめとぞ。(三〇〇) (佐保を通って、奈良の手向に幣を置くのは、妹に絶えず会うことのできるように、とのためです。)    磐金《いはがね》のこごしき山を越えかねて       ねをば泣くとも色に出でめやも。(三〇一) (岩が根の、険しい山を越えかねて、声に出して泣こうとも色に出すであろうか。そんなことはしない。) とあるので、「こごしき山」であったとされていたのであり、幣を手向けて越えていったことがわかります。峠や山を越える場合には、幣をたむけて安泰をいのる心情は、どの場合にも共通しているのです。  また、大和から伊勢へ出る交通路は、幾通りもあったことが知られます。一つは木津から笠置《かさぎ》を通り、加太《かぶと》越(鈴鹿山脈)で亀山の方へ出る交通路で、だいたい現在の関西線の路です。    鈴鹿川八十瀬渡りて誰が故か       夜越えに越えむ妻もあらなくに。(三一五六) (鈴鹿川の多くの瀬を渡って、だれのために夜越えよう。会うべき妻もないので。) とあるのは、加太越の場合の歌です。この道に対して、泊瀬から名張を通って布引山脈の阿保《あぼ》越をし、川口から松坂を経て宇治に至る道があります。これは現在の近畿日本鉄道の道とだいたい同じなのです。 伊勢への道は東海道にも通じた[#「伊勢への道は東海道にも通じた」はゴシック体]  大伴家持のよんだ、    河口の野べにいほりて夜のふれば       妹が袂し思ほゆるかも。(一〇二九) (河口の野べにとまって夜がたつと、家に残してきた妻の袂が思われる。) は、阿保越の場合の歌です。続日本紀によると、天平十二年(七四〇年)十月、藤原広嗣が謀反のとき、伊勢国に聖武天皇が行幸された場合は、名張郡を通られ、十一月に伊勢国壱志郡河口頓宮に至るとありますから、阿保越をされたのです。河口頓宮を関宮《せきのみや》というとあります。幣帛《へいはく》を大神宮に奉り、車駕《しやが》は関宮に十か月もとまったのち、鈴鹿《すずか》郡|赤坂頓宮《あかさかのとんぐう》から桑名《くわな》郡|石占頓宮《いしうらのとんぐう》に至り、さらに美濃国まで至ったとありますから、この路は伊勢の大神宮に参られる場合だけではなく、美濃の方に通う東海道へ出る場合にも通られたのです。  家持の歌も天平十二年のときであって、詞書にも、「河口行宮《かはぐちあんぐう》に内《うち》舎人《とねり》大伴宿禰家持のよめる歌」とあります。  そのときの天皇の御製歌として、    妹に恋ひあがの松原見渡せば       潮干のかたに田鶴なきわたる。(一〇三〇) (妹に恋いながら、あがの松原を見渡すと、潮のひた潟に、たずが鳴いていく。) とあります。このあがの松原は左注に、三重郡にあり、河口行宮を去ること遠い、とあります。なお壬申の年(六七二年)大海人皇子が吉野から軍を進められたときも、菟田《うだ》から伊賀郡に至り、積殖《つむえ》を通って、伊勢鈴鹿に至られております。それから鈴鹿関を過ぎて桑名から野上にいかれています。 山越えの苦しみと感慨が多くの歌に[#「山越えの苦しみと感慨が多くの歌に」はゴシック体]  また大宝二年(七〇二年)、太上天皇(持統天皇御譲位の後)の三河御幸のときは、往路は伊賀国を通っていかれ、帰途は伊勢から伊賀を通っておられます。どの道をとられたか、続日本紀では明らかでありませんが、往路は阿保越であられたのでしょう。  万葉集にみえる十市《とおち》皇女が伊勢神宮に参る途次に、波多横山嶺を見て、吹黄《ふぶきの》刀自《とじ》が、    河上の湯津磐村《ゆづいはむら》に草むさず       常にもがもな常《とこ》処女《をとめ》にて。(二二) (河上の磐村に草がはえず、いつまでもありますように、とこしえに処女でありたいです。) とよんでいます。この波多横山の所在地については、種々考察されていますが、土屋文明氏の『万葉紀行』の中には、阿保越をされたとみて、その道中に波多横山を想定されています。伊勢参宮の場合は阿保越が多かったのですから、そのようにみるべきでしょう。ただし宇治山田に出るには、さらに宇陀松山を通って、和歌山街道に出て東行する道があることは、土屋氏もいわれているところであります。  このように大和から他の国へ出る交通路は、いずれも山や峠を越えて出るので、それだけ苦しみもあり、感慨も深かったので、万葉集にも多くの歌が残されたのでしょう。その場合、前にも記したように、道の険しさに伴う、幣をたむけるなどのことが行なわれており、民間信仰的な性質もみられるのです。  以上、大和と万葉集との関係を風土の問題を主として考察してみました。山と都と交通路とを問題としましたが、それは、わたしの考えている文学地理学の構想によって叙述しました。これらは風土の問題であるとともに、歴史にもつながっていることは明らかであり、そういう風土的歴史的背景が、万葉集の歌にも深い関連があることを感じます。 [#扉4(chapter4.jpg)]  4 人麻呂・憶良・赤人 [#小見出し] 〈1〉人麻呂の歌と歌謡 評価に対立をみせる古今の大歌人[#「評価に対立をみせる古今の大歌人」はゴシック体]  万葉集の歌人として、三人をえらぶとすれば、わたしは、柿本人麻呂《かきのもとのひとまろ》・山部赤人《やまべのあかひと》・山上憶良《やまのうえのおくら》をあげたいと思います。そして、一人をえらぶとすれば、柿本人麻呂を推したいのです。さらに日本の詩歌史の中から三人の歌人をあげるとしても、人麻呂はその中の一人に推したいと思います。それほど人麻呂は大きな歌人です。  柿本人麻呂については種々の考察すべき点がありますが、人麻呂観については、二もしくは三の対立した見解があります。一は人麻呂を歌聖と仰ぎ重んずる考えであり、これが主要なる流れですが、近代にはいってから、人麻呂を御用歌人として批判する長谷川如是閑氏の見解などが現われてきました。これは人麻呂の歌に、詩人としての感動よりも、宮廷歌人としてよんだ儀式歌の類型性を認めようとした点があり、人麻呂の歌の一面をついた批判とみられます。  しかしそれは、従来の人麻呂観にもみられた一面を強調したものでしたが、それに比べると、民俗学の方面から説かれた人麻呂観は、従来の人麻呂観と対立するものがあります。人麻呂を柿本氏の一人としてみ、その歌もその柿本氏の共同体を表わしたとみる見解です。これは、人麻呂の歌を個性的にすぐれた歌としてよりは、伝誦的な歌としてみることになります。  人麻呂の歌が個性歌であるか伝誦歌であるかということは、人麻呂評価の上にも重要な点ですが、両者は全然相いれない説ではなく、両者をともにつつんでいるのが人麻呂の歌である、といってよいのです。 伝誦されているうちに種々の異同[#「伝誦されているうちに種々の異同」はゴシック体]  人麻呂の歌に伝誦性のあることは認められます。その流麗な声調には伝誦的な点があります。人麻呂の歌を、新羅《しらぎ》へ使いにいく人たちが難波の海に舟泊りしていた、月明の夜に謡《うた》ったことは、万葉集巻十五の歌によって知られます。    天ざかるひなの長ぢを恋ひくれば       明石の門より家のあたり見ゆ。(三六〇八)    武庫のうみのにはよくあらしいざりする       あまの釣り舟波の上ゆ見ゆ。(三六〇九)  それらの歌が、巻三にみえる人麻呂の羈旅《きりよ》の歌の詞句をすこし変えてうたわれているのは、人麻呂の歌が伝誦歌であるというよりは、人麻呂の歌が流麗な声調の歌であるために、のちに誦詠されたとみたいのです。  これは人麻呂の近江荒都をいたむ歌に「或[#(は)]云[#(ふ)]」、「一[#(に)]云[#(ふ)]」として、本文の異同があげてあることや、石見から妻に別れて都に上るときの歌にも「或本[#(に)]云[#(ふ)]」として、異同のある歌をあわせてあげてあることをみても、謡われてゆくうちに、種々の異同が生じたとみたいのです。これについては、人麻呂の第一草稿、第二草稿とみる説もありますが、わたしは、伝誦されたために生じた異同とみたいのです。  また、人麻呂歌集の歌が巻十四の東歌にはいっているのも、人麻呂の歌が東国へ旅行したものによって謡われたとみられます。もとより人麻呂歌集の歌は、人麻呂の歌であるかどうかは研究を要することですが、ここではその問題には深くはいらないことにします。また、人麻呂の歌と巻十三の長歌に類似句の多いのは、人麻呂の歌が巻十三の歌に影響したか、巻十三の歌が人麻呂の歌に影響したかが問題ですが、わたしは人麻呂の歌が影響したものとみたいのです。 海の歌が川の歌に変えられた例も[#「海の歌が川の歌に変えられた例も」はゴシック体]  巻十三につぎの歌があります。    天雲の 影さへみゆる こもりくの 長谷《はつせ》の川は    浦なみか 船のより来ぬ 磯無みか あまの釣りせぬ    よしゑやし 浦は無くとも よしゑやし 磯は無くとも    奥つ波 きほひこぎりこ あまの釣船。(三二二五) (天雲の影までみえる山国を流れる長谷川(泊瀬川)は、いい浦がないためか船がよってこない。いい磯がないためか漁師も釣りをしない。よしやいい浦はなくとも、よしやいい磯はなくとも、沖の波はきそって漕《こ》ぎ入れてきなさい、あまの釣舟よ。)    反歌    さざれ波浮きて流るる長谷川       依るべき磯の無きがさぶしさ。(三二二六) (小波が浮いて流れる長谷川よ、依ることのできる磯のないのが、さびしいよ。)  この歌は、人麻呂の、石見《いわみ》から妻に別れてきたときの歌に類似しています。つまり、その歌の中に、    石見のみ 津の浦をなみ 浦無しと 人こそ見らめ    かたなしと 人こそ見らめ よしゑやし 浦は無くとも    よしゑやし かたは無くとも いさなとり 海べをさして(一三八) (石見の海にいい浦がないので、いい浦がないと人は見るだろう。いい潟がないと人は見るだろう。よしやいい浦はなくとも、よしやいい潟はなくとも、海べをさして) とあるのと比べますと、巻十三の歌と類似していることは明らかです。両者のうちで「磯なし」「潟なし」などの詞句は、石見の海の形容としてはふさわしいのですが、泊瀬川の形容としては不自然です。泊瀬川に対して「浦なみか船のより来ぬ磯無みかあまの釣りせぬ」というのはどうしてもありえないのです。これは人麻呂の歌にならってよんだものとしなければなりません。(「柿本人麻呂と巻十三との関係」美夫君志第一号)  そうすると巻三の人麻呂の羈旅歌《きりよか》と、巻十五の新羅使《しらぎへのつかい》の誦詠した歌と同じ関係になるのです。 祝詞《のりと》に学び祝詞を成長させる[#「祝詞《のりと》に学び祝詞を成長させる」はゴシック体]  わたしはかつて、人麻呂の長歌と祝詞との関係を、人麻呂が祝詞の詞句や構成から学んだこともあるかもしれないが、人麻呂の歌のすぐれた詞句が、祝詞文の成長に影響したことも十分にありうる、とのべたことがあります。人麻呂の歌が誦詠され、また他の文芸に影響したことは意外に大きいことを認めたいのです。  と同時に、人麻呂の歌も忽然《こつぜん》として生まれたものではありません。それまでの神話・祝詞・歌謡などは、人麻呂の歌にとり入れられ、それらが母胎となって人麻呂の歌が形成されたことを、認めざるをえないのです。  人麻呂の歌には神話的事柄がよまれていますが、これについてわたしは、舎人《とねり》として天武天皇の御代に二十八歳で宮廷に仕え、それ以後、持統・文武・元明天皇の御代までも仕えていたと推測される稗田阿礼《ひえだのあれ》と人麻呂が知り合い、それから神話的知識を伝えられたであろうと推測したことがあります(和歌史古代篇所収)。近くは人麻呂の一族、つまり柿本氏が神話を伝承した家柄であろうかとする説も出されました。いずれにしても、人麻呂は、古事記の成立する前に、その素材となった帝紀や旧辞の内容を知り、それを皇子や皇女の薨去をいたむ歌によみこんだとみられるのです。  また人麻呂以前の祝詞がどのような形態であったかは、明瞭なことはいえないのですが、人麻呂以前からある祝詞の神話からも、人麻呂は神話知識をえたでありましょう。ただ、祝詞の文詞になると、現存祝詞はかえって人麻呂の長歌から学んだものがあったのではないでしょうか。現存祝詞の詞章の固定したのは、遅れて、奈良時代もしくは平安時代になってからであろう、と推測するからです。 伝誦文学から記載文学を開拓[#「伝誦文学から記載文学を開拓」はゴシック体]  人麻呂以前の歌謡を、人麻呂はみていたでしょうが、それをどれだけ人麻呂はとり入れたでしょうか。記紀歌謡と人麻呂の歌とを比較してみても、はっきりいえません。万葉集の中の歌謡的な歌と人麻呂の歌との関係は前にのべたとおりですが、しかし、これらの類似は、人麻呂の歌の影響と認められるのです。それ以前の歌謡があり、それが人麻呂の歌にも、十三の巻の歌謡にも影響したとみられなくもありませんが、それもそうと断ずる証はないのです。  いずれにしても、人麻呂の歌に伝誦的性質が多くあることは認められます。と同時に人麻呂の歌が伝誦的な性質のみにとどまらず、人麻呂の個性によって生み出されたすぐれた文芸性の存することも否定し難いのです。いわば人麻呂は、伝誦文学から記載文学を開拓した歌人といえるのです。単に過渡時代の歌人といってしまえない伝誦時代に育ち、そういう傾向をうけつぎながら、自覚的に個性の文学を創造しえたのです。  和歌を歌謡と区別して、謡われなくなった歌が和歌であるとする見解は、そのままには従い難いのですが、謡われなくなった和歌の出発を、人麻呂におくことは正しいでしょう。人麻呂の歌に、神と人間との、両方の要素を見出すのも、その点で肯定されるのです。和歌史から数人をえらぶときに人麻呂をまずあげるのは何人にも異論はないでしょう。 [#小見出し] 〈2〉憶良の人間愛 人生の悲喜をありのままにうたう[#「人生の悲喜をありのままにうたう」はゴシック体]  人間がいかに生きていくかということは、わたしどもにとって、もっとも大きな問題ですが、文学もこの点をそれぞれの立場から追求しているのです。わたしは万葉集の二人の歌人を通じてこの点をのべてみたいのです。  万葉集には数百人の歌人がいますが、人間の生き方の上からみて深く心をひかれるのは山上憶良と山部赤人です。万葉歌人として第一にあげられるのは、すでにとりあげた人麻呂ですが、人麻呂はあまりに大きな歌人である上に、神話の世界から人間の世界へうつる過渡的な意味があり、容易に近づけない感があります。それに対して、人間の世界にしっかり足をおろし、ひとりの人間として、喜びも悲しみも苦しみも、ありのままにうたっているのが山上憶良です。また憶良とは異なった意味で、人生の清らかなものを求め、自然の中にそれを見出していったのが山部赤人です。  憶良は若いときに遣唐小録として唐にいき、帰ってから、養老五年には東宮の侍講になっています。帰化人の出身ではないかとする説もあります。神亀《しんき》二、三年のころ、七十歳近くなってから筑前守として九州に渡っており、そこで五年を過ごしたとき、    天ざかるひなにいつとせすまひつつ       都の手ぶり忘らえにけり。(八八〇) (都はなれた田舎《いなか》に五年住んでいて、都の風習をも忘れてしまった。) とよんでいる点にも、率直な気持ちが出ています。天平三年ごろには都に帰り、二、三年過ぎて世を去っています。七十四、五歳であったようです。 しみじみ考えさせる貧窮問答[#「しみじみ考えさせる貧窮問答」はゴシック体]  憶良の歌は、老年になってからのものが主であるためもありますが、人間や人生をしみじみ考えさせる歌が多いのです。憶良によりますと、人生は苦悩にみちていて、病気や老や貧窮がつきまとい、それとともに、死をも免れないのです。憶良はこれらについていろいろとうたっていますが、ことに貧窮生活については、切実に写実的にうたっている点に、他の歌人にみられない特質があります。貧窮問答はそれです。長いのですが、これをあげてみます。 [#ここから3字下げ] 風|雑《まじ》り 雨ふる夜の 雨雑り 雪ふる夜は すべもなく 寒くしあれば 堅塩《かたしほ》を とりつづしろひ 糟湯酒《かすゆざけ》 うちすすろひて しはぶかひ 鼻びしびしに しかとあらぬ ひげかきなでて 吾《あ》れをおきて 人はあらじと ほころへど 寒くしあれば 麻ぶすま 引きかがふり 布肩衣《ぬのかたぎぬ》 ありのことごと 着そへども 寒き夜すらを われよりも 貧しき人の 父母は 飢ゑ寒からむ 妻子《めこ》どもは 乞ひて泣くらむ この時は いかにしつつか 汝《な》が世はわたる 天地は 広しといへど 吾《あ》がためは さくやなりぬる 日月は 明しといへど 吾《あ》がためは 照りやたまはぬ 人皆か 吾《あ》のみや然る わくらばに 人とはあるを 人なみに 吾《あ》れもなれるを 綿も無き 布肩衣の 海松《みる》のごと わわけさがれる かかふのみ 肩にうちかけ 伏いほの まげいほの内に ひた土に 藁《わら》ときしきて 父母は 枕のかたに 妻子どもは あとの方に かくみゐて 憂ひさまよひ かまどには 煙ふきたてず こしきには 蜘蛛《くも》の巣かきて 飯かしぐ 事も忘れて ぬえ鳥の のどよひ居るに いとのきて 短きものを 端《はし》きると 云へるがごとく しもと取る 里長《さとおさ》が声は ねやどまで 来立ちよばひぬ かくばかり すべなきものか 世の中の道。(八九二) [#ここで字下げ終わり] 貧窮問答の口訳[#「貧窮問答の口訳」はゴシック体] (風がまじって雨が降り、雨にまじって雪の降るみぞれの夜は、どうしようもなく寒いので、堅くなった黒塩をしゃぶり、濁り酒をすすって、咳《せき》をし、鼻をびしゃびしゃさせながら、ちょびひげを撫でて、自分をのぞいてはえらい人間はないと誇っていても、寒さは身にしみる。それで、麻のふすまをかぶるようにし、布で作った袖なしのちゃんちゃんこを、あるかぎり皆重ねて着ても、それでも寒い。そのような夜を、自分よりも貧しい人の父母は飢えて寒いことであろう。その妻子どもはなにか食べたいと乞うて泣くであろう。こんなときは、どうしてお前は世の中を過ごしているか。  天地は広いといっても、自分のためには狭くなったのであろうか。日や月は明るく照っているが、わたしのためには照ってくださらないのであろうか。人は皆だれでもこんななのか。わたし一人がこんなであるのか。たまたま人間と生まれたのに、ふつうの人間と成人したのに、綿もはいっていない布のちゃんちゃんこの、海松《みる》のようにさけて垂れている襤褸《ぼろ》ばかりを肩にかけるように着て、貧しい倒れかかった小屋の内で、床もない土間の上に藁をといて敷いて、それでも父母には枕もとの方にやすんでもらい、妻子たちは足もとの方にねて、自分をかこむようにいて、憂いうめいている。食べるものもないので、かまどには炊《た》くこともないので煙も立てない。飯をむすのに使う|こしき《ヽヽヽ》に御飯を入れることもしないので、蜘蛛の巣がかかっており、飯を炊くことも忘れて、ぬえ鳥の鳴くように弱々しい声でつぶやいていると、短いものをさらに端を切るという譬《たと》えのように、鞭をもった里長の声は、寝ている所までどなっているのが聞こえてくる。このようにしてどうすることもできないのか人間の生きていく道は。)    反歌    世の中をうしとやさしと思へども       飛びたちかねつ鳥にしあらねば。(八九三) (世の中をつらくはずかしいと思うけれども、飛び立ちかねている。鳥でもないから。) 生きることがどんなに苦しかろうと[#「生きることがどんなに苦しかろうと」はゴシック体]  この歌は貧窮生活を問答的によんで切実です。憶良は世の中をうくつらく、また気のひけるように思っても、鳥ではないから飛び立つこともできない、とうたうのです。どのように苦しくとも、現実から離れることはできない。それが人間である、とするのです。しかしそういう苦しい生活の中にも、父母を枕の上の方に、妻子を足の下の方にねせるようにして、秩序を守ろうとしていることが、この歌によってわかるのです。また、歌のはじめの詞句には、みぞれ降る冬の夜の寒さがよく表われていて、たぐいまれなほどです。  憶良には、老と病とに苦しむのをうたったのがありますが、その反歌にも、    術《すべ》もなく苦しくあれば出で走り       いななと思へど児らにさやりぬ。(八九九) (どうしようもなく苦しいので、家を出て走って行ってしまいたいと思うけれども、児らに後髪ひかれていけなくなってしまう。) とあって、子どもに対する愛情のために、どのような苦しみをも堪えていくことをうたっています。そうして憶良は、父母妻子を養うことも忘れて、世の中に超然たろうとする老荘風の思想を、まどった情であるとして、これを反省せしめる歌をよんでいますが、その反歌に、    ひさかたの天道《あまぢ》は遠しなほなほに       家に帰りてなりをしまさに。(八〇一) (はるかな天の道は遠いから、すなおに家に帰って、職業にいそしんだがよい。) とよんでいます。すなおに家に帰って職業に精を出すのが、結局人間の生きる道であるとするのです。 生きぬくのが人間の道と観じて[#「生きぬくのが人間の道と観じて」はゴシック体]  憶良には、現実がどんなに苦しみにみちた世界であっても、そこから出ることはできないのであり、現実においてできるだけのことをするよりほかに、生きる道はないと考えるのです。これは人生の生き方としては、老荘風の思想を好んだ大伴旅人の生き方と対立していますし、また、自然の中に理想を見出した山部赤人の生き方とも相違しています。  それならば、憶良がこのように現実から離れることのできなかった理由はどこにあるのか、また、現実から離れようとしない根拠はどこにあったのでしょうか。それは第一には、生きたいという人間の本能を認めていることです。つぎの歌をみても生に対する本能的な愛着がうかがえます。    しづたまき数にもあらぬ身にはあれど       千年《ちとせ》にもがと思ほゆるかも。(九〇三) (人の数にもはいらないような身ではあるが、千年も生きたいと思われるよ。)  第二には、子供に対する愛と妻子を養わねばならないという、人間としての義務の自覚です。去ってしまいたいと思っても、子供にさまたげられるというのは、子供を養うべき親としての責務を感じているのです。それは義務であるとともに妻子に対する深い愛情です。「白がねも黄金も玉も」子供に比べるとなんでもないという、ここに子供に対する限りない愛情があります。愛情と義務やつとめとは、結局一体になるのです。  第三には、憶良の人生観もしくは人間観として、苦しみにみちた人生を生きぬくのが、世の中の道であるという自覚です。憶良は、「世の中の道」という言葉をしばしば用いています。 生への執着よりも偉大な人間愛[#「生への執着よりも偉大な人間愛」はゴシック体]  貧窮問答において、貧窮の苦しみをうたいながら、「かくばかりすべなきものか世の中の道」(八九二)といっています。また、わが子の古日を病でなくした悲しみをのべて、「手にもてるわが子飛ばしつ世の中の道」(九〇四)とうたっています。  ここには、人間に対する憶良の大きなあきらめともいえるものがあり、またそういう老・病・貧や死の悲しみをも大きくつつんで、なお生きていこうとする、大きな人間観ともいえるものがみられます。それは生の執着というよりも偉大な人間愛であり、きびしい人間形成の道でもあると思われます。  それは儒教道徳に支えられた人間形成の道であるともいえるのですが、単に儒教道徳の影響というよりは、それを自己の生きている場において、自己のものとしていると思われるのです。 近代に至って人麻呂とならぶ評価[#「近代に至って人麻呂とならぶ評価」はゴシック体]  さらに憶良は、現実にどこまでも立っているようですが、かれの病が重くなったときの歌に、    をのこやも空しかるべき万代に       語りつぐべき名は立てずして。(九七八) (男たるものが空しく過ごしてよかろうか。万代に語りつげるような名をも立てないで。) とあるのをみますと、単に現実の名利を求めたのではなく、万代に語りつげるような、永遠の名を求めていたことが知られます。この場合にも、永遠の名は、現実に強く生きていくということと別のものではなく、そのことによって、あるいはそのことの中に永遠なるものを見出していった、とみられるのです。  万葉歌人の中で、憶良ほど人間らしく生きぬこうとした人はないと思われます。それだけ、苦しみとなやみとが多いのであり、そのために、悲劇的という批評もみられますし、また、種種の矛盾をも含んでいる、ともいえるのです。しかし、それゆえに憶良は、わたしどもが生きていく上に、もっとも身近な感じを与えるのです。  このように、あまりに人間を赤裸々にうたったために、美の世界から遠いとして、平安時代以来重んじられなかった憶良が、近代になってから、その価値を認められて、人麻呂とならぶ歌人と考えられてきたのも、憶良の、人間として生きる態度が、高く認められてきた結果であります。 [#小見出し] 〈3〉赤人の自然愛 その生を自然に見出して生きた[#「その生を自然に見出して生きた」はゴシック体]  憶良に対して山部赤人は、一般に自然歌人といわれています。長歌十三首、短歌三十六首のうち、大部分が自然をうたった歌です。赤人は、その生涯はよくわかりませんが、山部という氏からみて、山に関係のある職業をいとなんだ家柄ともみられます。そういう生活環境が、自然に愛を感ずる原因となったともみられますし、山の自然をうたった歌にすぐれた作品の多い理由ともみられます。  そうして、赤人が自然を多くうたっているのは、歌の素材を自然にとったというより、人生の生き方の上で、自然に心をひかれていったといえるのであり、それは現実の生活から自然にのがれていったともみられますが、自然に目を開いた上で、人生に生きていったともいえるのです。  赤人の歌に、    春の野にすみれつみにと来しわれぞ       野をなつかしみ一夜ねにける。(一四二四) (春の野に、すみれを摘みにと来たわたしは、野をなつかしく思って、一夜野でねてしまった。) というのがあります。この場合のすみれは、花をめでるよりは、薬草であるとする説もありますが、ここではそういうことは別として、自然に対する深い愛着がうたわれていることをいいたいのです。そうして野をなつかしむあまり一夜ねるというのは、すでに自然をわきから眺める以上に、自然の中に生活するともいえるのです。  古来の自然詩人といわれる人は、西行にしても、芭蕉にしても、自然の中に生活しており、自然と生活とが一体になっているのですが、赤人においても、すでにそういう点がみられます。 それは自然の清らかな美であった[#「それは自然の清らかな美であった」はゴシック体]  では、赤人が自然において見出していったのはなんであるかというと、それは自然の中の「清らかなもの」であり、それに心をひかれていったと思われるのです。いったい、万葉集の美は、どういう点に中心があるかというと、「清」の美、つまり、清らかな美をあげることができます。たしかに万葉人は清らか、清きということをしばしばうたっており、自然に対しても「清き川の音」「清き月夜」ということがうたわれています。  清らかな美とともに「さやけさ」「さやか」という言葉も用いられています。「さやか」は清らかなものをつつんで、さらに明るさを伴っています。満月の光は「さやか」の美としてうたわれています。このような清らかな美、さやかなる美は、万葉歌人のながめた自然の美でもあったとともに、人間の世界における美でもあったのです。そうして、万葉歌人の中で、清らかな美をもっとも多くうたったのは赤人です。    ぬば玉の夜のふけゆけばひさぎ生ふる       清き川原に千鳥しば鳴く。(九二五) (暗い夜がふけていくと、ひさぎのはえている清い川原に、千鳥がしきりに鳴いている。)  夜がふけていくと、ひさぎのはえている清い川原に千鳥が鳴いている、とあるこの清い川原は、赤人の求めてやまなかった美です。この反歌の長歌の中にも、「川なみの清き河内ぞ」とあり、同じく天平八年に吉野をうたった歌にも「河はやみ瀬の音ぞきよき」(一〇〇五)とよんでいます。 その清らかな美を人間にも求めて[#「その清らかな美を人間にも求めて」はゴシック体]  また赤人の絶唱である、    み吉野の象山《きさやま》のはの木ぬれには       ここだも騒ぐ鳥の声かも。(九二四) (吉野の象山の山裾《やますそ》の木のさきには、鳥の声がたくさんさわいでいる。) という歌は、時刻については夜とみる説が多いのですが、わたしは朝の歌と解する説に従いたいのです。朝のさわやかなとき、吉野の象山のはの、木々の間にちくちくと鳴いている小鳥の声は、いかにも清らかな感じがします。赤人のよんだ自然には、優美な自然、静寂な自然もありますが、その場合にも、清らかな感じをもっているのです。清らかな美は、純粋な、すき通った美です。にごったもの、不透明なものは、清らかとは異なったものです。  赤人はこのような清らかな美を自然に見出し、それを求めているのです。そうして、このような清らかな美は、自然の中に見出されると考えたのです。同時に、赤人が清らかな美を自然に求めたのは、一方からいえば、人間においても、清らかな美を求めたと思われます。清らかな美は、人間よりも自然に、より多くみられるといってもよいのですが、人間にも清らかな美は存します。人の名にも清麻呂という名があり、浄見《きよみ》が原という地名もあります。人間は清らかなものを求めているのです。 清純なまま死んだ手児奈をうたう[#「清純なまま死んだ手児奈をうたう」はゴシック体]  赤人には、人間を直接にうたった歌はきわめて少ないのですが、葛飾《かつしか》の真間手児奈《ままのてこな》の墓を過ぎてよんだ歌があることは、注意されます。真間手児奈は種々の男性に思われて、どちらとも定めかねて、清らかなままに身を投げています。  このような説話は、芦屋娘子の場合も同様ですが、清きがままに散った娘子の中に、赤人は人間における清らかな美を見出したといえるのです。手児奈は、あまりに清らかであったがゆえに、この世に生きるに堪えかねて身を投げてしまったともいえるのです。  わたしどもは、日本文学の中で、竹取物語のかぐや姫や羽衣の天女に、清らかな美の極致を見出すのであり、それゆえに、こういう作品に心をひかれるのですが、赤人は清らかなものを求めて自然に向かったとともに、人間の世界に清らかな美を求めて真間手児奈を見出したといえるのです。  清らかな美は純粋感情の美であって、叡知や理性の美ではないかもしれません。そこに清らかな美を求めるだけでは、純粋ではありますが、人間的な大きさとか強さとか広さにかけるところがあるともみられます。赤人の歌をよんで、そのような感も生ずるのです。  しかしこのような清らかな美、清純な美しさこそ、自然の美の中心であるとともに、人間の世界を美しく純粋にするのです。 永遠に追求される伝統の日本美[#「永遠に追求される伝統の日本美」はゴシック体]  赤人の歌が万葉集の中で重んじられたのも、このためであり、またこういう清らかな美は、日本の美の伝統として、長く重んじられたのです。古今集の序で、赤人が人麻呂とならんで重んじられ、また古今集以来の詩歌が、赤人的なものを常に重んじたのは、このような清らかな美を求めたからにほかならないのです。  西行にしても芭蕉にしてもこういう伝統を身につけ、それを時代に即して新しく発展せしめたと思います。  万葉集における人間の生き方にも種々の場合がありますが、わたしは、赤人のようにあくまで清らかなものを求めて純粋に生きていく生き方は、憶良のような生を追求する理性的な生き方とともに心を深くひかれます。そうして、憶良的な人生の生き方と、赤人的な生き方とが、さらに大きくつつみあう点に、人間形成の道があると思われるのです。  それは、日本文学全体においてもみられる点ですが、わたしどもの生きていく上にも、そのことはいわれるのです。 [#扉5(chapter5.jpg)]  5 旅人と家持 [#小見出し] 〈1〉旅人の性格と特色 憶良と同時代人としての旅人[#「憶良と同時代人としての旅人」はゴシック体]  大伴旅人は山上憶良とほぼ同時代の歌人であるうえに、ともに人生歌人として生活をうたっております。また、人麻呂や赤人のように歌をもって宮廷に仕えた専門歌人としてでなく、官吏として活躍しており、歌は余業であった点でも共通しております。しかし、憶良は家柄が低く、位置も筑前守で終わっているのに対して、旅人は大伴家の中心として、古来、武をもって仕えた家柄であり、旅人も大宰帥《だざいのそち》を経て大納言になっています。  憶良が生活の苦しさ、貧窮の悲しみをうたっているのに対して、旅人は生活の享楽をうたい、酒を好んでいます。憶良がまじめで、宴席に出ても苦虫《にがむし》をかみつぶしたような態度であるのに対して、旅人は朗らかに酒を飲み、愉快に興じています。憶良が儒教風であるのに対して、旅人が老荘風とよばれる点にも、両者の相違がみられます。  それで、憶良と旅人との関係の上でも、また性格の上でも、対立している方を主とする見方と、両者の共通する点を主とする見方とがあります。わたしは両者の対立する点もあるとともに、共通する点もあり、それで、北九州の大宰府の官舎で二人の交遊も行なわれ、歌の集まりもなされ、それらが万葉集巻五の成立する基盤になっているとみたいのです。  そういう点を考えながら、旅人の歌における人生歌人としての特殊性と、その歌の形式的特色としての連作の性格をのべてみたいのです。 武人の家柄に生まれて大宰帥に[#「武人の家柄に生まれて大宰帥に」はゴシック体]  旅人の生涯は、大伴家を背負ってたった人物として、大臣にはなりませんでしたが、大納言にまでなっています。『公卿補任《くぎようぶにん》』(公卿伝)によると、旅人の父大伴|安麻呂《やすまろ》は、文武天皇の大宝元年(七〇一年)には中納言として名を列ねていますが、三月十九日に任ぜられ、二十一日には中納言を解かれて侍従三位となり、翌大宝二年五月十七日に参議になっております。それから慶雲二年四月十七日に再び中納言になり、同年八月一日に大納言になっております。この年に大宰帥を兼ねているのは武人の家柄のためと思われます。それから奈良時代にはいって和銅七年五月に薨《こう》じています。  この間、大納言は安麻呂一人であり、その上官には、藤原不比等が右大臣になって、ほかに石上朝臣麻呂が左大臣ですが、石上麻呂は和銅二年には七十歳であり、不比等が実権を握っていたのです。安麻呂はその点で不安定な位置であったとみられますけれども、それはある意味で藤原氏と対抗していたとみられます。  こういう安麻呂の子として、旅人も早くから官途についています。養老二年には、参議を経ないで中納言に任ぜられています。そのときには、不比等が右大臣で、これに対する意味では、長屋王《ながやのおおきみ》が大納言になっています。それから、天平二年の十月に大納言になり、その翌年(七三一年)七月二十五日に薨じております。中納言たること十三年とありますが、しかし、この間に大宰帥に数年のあいだなっているのです。そうして自ら大宰府におもむいているのですが、このころは長屋王が右大臣になっています。 歌境を進めた憶良との出会い[#「歌境を進めた憶良との出会い」はゴシック体]  旅人が大宰帥になったのは、武人の家柄として、父と同様に任ぜられたと思われますが、旅人としては、必ずしも望んでいったのではないようです。しかし大宰府におもむくことによって、かれの歌才は自由にのびていったとみられます。それは筑紫にあることによって、遠き都として望郷の念が歌になったのでもあり、また赴任後まもなく、従ってきた妻に死なれたこともあり、また、あたかも筑前守として赴任していた山上憶良と会ったことにもよって、歌をよむ場が開かれたとみられるのです。  官吏として青年期・壮年期を過ごし、いまや老年期にさしかかったときに、自分より年上ですが、同じく歌才のある憶良とめぐり会って、歌をよむ機会が生じたのです。二人とも漢詩漢文に明るいことがたがいにひきつけたともみられます。旅人の明るい社交性と憶良の非社交性との相違にもかかわらず、二人は親密になっていったと思われます。  梅花宴の歌をはじめ、旅人と憶良とが中心になって、歌のよまれる多くの場が作られました。旅人の妻の死も、挽歌をよみかわす場となっています。ただ接触が多くなるにつれて、人間的な二人の相違、思想的に一方が儒教的、倫理的であるのに対して、一方が老荘的であり、超現実的である相違が感じられてきます。そこに反発も生ずるが、しかし同時に、離れられない相似性もあって、筑紫時代には、二人の密接な関係はつづいたとみられます。  旅人が天平二年の暮れに大宰府を離れて都に帰ってからは、会う機会もないうちに、旅人は翌年には世を去っています。 老荘風を愛した有能な官吏[#「老荘風を愛した有能な官吏」はゴシック体]  旅人の歌として第一にあげられるのは讃酒歌十三首です。これは宴席の即興歌ともいえる歌ですが、旅人の思想や歌風がよく表われて、かれの代表作といえるものです。    しるしなき物を思はずは一|坏《つき》の       濁れる酒を飲むべくあるらし。(三三八) (役にもたたないことを思わないで、一杯のにごり酒を飲んだほうがよろしい。) にはじまる一連の歌には、老荘風の思想を好む旅人の思想がよく表われており、平明な歌風も、旅人の特質をよく表わしています。ただ、これらの歌によって旅人を享楽詩人とし、シャルル=ボードレールなどの詩に比較する場合もありますが、しかし、旅人はそういう享楽的な生活を送った詩人ではなく、有能な、かつ家柄のよさからくる気品をそなえた、寛大な官吏として、生涯を送っています。  宴席の場で遊女に親しく話しかけ、それゆえにいつまでも慕われたにせよ、享楽的になることなく、いつまでも、亡き妻を思う家庭的な人柄に、その本領はあったでしょう。それだけに、讃酒歌は旅人の好んだ思想であったにせよ、それは知識としての思想であって、生活の中にはいりこむには至らなかったのです。それだけ讃酒歌は題材の新しさ、表現の新鮮さによって旅人の歌の中でもっとも注目されてよい作品ですが、生活に滲透しない、という欠点ももっています。  しかしまた、こういう思想的題材を扱った作品が、長歌という形態をとらないで短歌でよまれ、また、十三首一連で一つの題材をよむという形式を用いたところに、旅人の歌の特質の一つがみられます。わたしはその点では、旅人を人生詩人とするとともに、連作歌人といってみたいのです。 [#小見出し] 〈2〉旅人の特質としての連作 伊藤左千夫の連作論からみると[#「伊藤左千夫の連作論からみると」はゴシック体]  連作という形式は、今日の短歌や俳句の上にも重要な問題ですから、やや専門的な問題になりますが、ここで触れておきたいのです。  連作ということがとりあげられてきたのは、明治時代に提起された伊藤左千夫の連作論からでしょうか。左千夫の連作論は、その性質をかなりきびしく限定したので、万葉集の中で連作といえるのは、旅人が九州から都へ上るときの、瀬戸内海の鞆《とも》の浦《うら》の歌三首だけであるとしました。 [#この行4字下げ]天平二年庚午冬十二月大宰帥大伴卿京に向かひ道を上る時よめる歌五首    わぎもこが見し鞆の浦の天木香樹《むろのき》は       常世に有れど見し人ぞなき。(四四六) (わたしの妻の見た、鞆の浦にある室《むろ》の木《き》は、いつまでも生きているが、それを見た人はもうこの世にはいない。)    鞆の浦の磯の室の木見むごとに       相見し妹は忘れえめやも。(四四七) (鞆の浦の磯にある室の木を見るであろうごとに、ともに見た妻のことが忘れられようか。忘れられない。)    磯の上に根はふ室の木見し人を       いづらと問はば語りつげむか。(四四八) (磯の上に根のはえている室の木を見た人を、どこにいるかと尋ねると、語りつげてくれるであろうか。) 右三首|鞆《とも》の浦《うら》を過ぐる日よめる歌 とあるのがそれです。 鞆の浦をうたった三首だけだが[#「鞆の浦をうたった三首だけだが」はゴシック体]  左千夫の連作論は、「連作之趣味」(明治三十五年一月心の花)「再び歌の連作趣味を論ず」(明治三十五年四月心の花)などにみられるのですが、その連作の歌における条件として、 [#ここから1字下げ、折り返して2字下げ] 一、連作は必ず二個以上の材料(或は主観或は客観)を配合せる連関を有すること 二、連作は必ず位置と時間と共にまとまって居て余り散漫ならざること 三、純客観の連作はあるとも純主観の連作は成立しがたきこと 四、連作は必ず数首を連関すべき趣向あること 五、連作は必ず現在的なること(往事を追憶し後事を想像するとも必ず現在の事実に基づける感想ならざるべからざること) 六、陳列的ならずして必ず組織的ならざるべからざること [#ここで字下げ終わり] と六条あげてあります。この条件に照らしてみますと、上述の三首以外にはない、というのが左千夫の見解のようです。それは一つの見解ではありますが、このように条件づけないで考えることもできるでしょう。左千夫の、純主観の連作は成立しがたい、というのも、そのままには従い難いのです。そのほか、二や三の条件にしてもこれをゆるめることはできましょう。 別の見方からすれば[#「別の見方からすれば」はゴシック体]  わたしは、連作は一つの題材もしくは主題によって統一されているとともに、ほぼ同じときに作られており、また一首一首が独立した短歌となりえているという条件があれば、ほぼ連作といってもよいと思うのです。そうして、そのような意味の連作を万葉集の中から求めるとき、旅人の鞆の浦の三首はもとより連作として認められますが、そのほかにも連作は多く存するといえます。  旅人の作品でいえば讃酒歌十三首も連作であるといえるし、旅人が都へ帰ってからよんだ歌にも、連作として認められるものがあります。旅人の歌だけでなく、人麻呂の羇旅《きりよ》の歌や高市黒人の羇旅の歌も、連作と認められるかもしれませんし、また、巻十六にある志賀白《しがの》水郎《あま》をいたむ憶良の歌もそれであり、笠《かさの》女郎《いらつめ》の二十四首の歌もそれとして認められるかもしれません。ただここで注意しておかねばならない点があります。  それは、ここにあげたような歌が、現在まとめられているような順序でよまれたかどうか、ということです。たとえば、人麻呂や黒人の羇旅の歌が、はたしてあの順序のままでよまれたかどうかは、問題です。  人麻呂の羇旅歌八首(二四九—二五六)をみても、二四九、二五〇、二五一、二五二の四首は難波の方から筑紫へいくときの歌とみられますが、二五三はおそらく都へ帰るときの歌であり、二五四は難波から筑紫へいくときの歌であり、二五五は筑紫から難波へ帰るときの歌でしょう。二五六の歌はどちらとも定め難いものです。  このように、八首すべてが、難波と筑紫とのあいだの、旅の歌であることは共通していますが、筑紫への歌と、難波への歌とがあることは、同時の作でないことになります。したがって、全体を一つのまとまった連作とすることが困難になるのです。 連作のようにみえて連作でないもの[#「連作のようにみえて連作でないもの」はゴシック体]  これと同じように、高市黒人の羇旅歌八首にしても、尾張の海岸の歌、琵琶湖の歌、難波の歌とがあって、同時の作とはみられないので、これを一つの連作とすることは困難であります。巻十六にある筑前の国の志賀白水郎の歌十首は、これに比べると一つの連作とみる可能性は多いのですが、この十首の歌の実際に作られた順序については、種々の説があります。作者についても憶良の作とすることが有力ですが、これを民謡的な歌を集めたとする説もあるのです。そのように解釈すると、連作とはいわれなくなります。  笠女郎が大伴家持に贈った歌二十四首にしても、連作的な形態に近いのですが、しかしこれらは、同じときにまとめてよんだとは思われないのであり、すくなくとも、いくつかの群れにわけてみなければなりません。連作であるにしても、いくつかの連作群とみなければならないでしょう。  その点からみると、旅人の讃酒歌十三首は、主題の上でまとまっており、かつ同じときによまれたとみられます。そうして、一首ずつ独立の歌となりえている点から、わたしはこれを一つの連作と認めたいのです。 旅人には連作が特に多い[#「旅人には連作が特に多い」はゴシック体]  このように、連作の上から万葉集の歌を検討してみるとき、左千夫が唯一の連作とした、旅人の鞆の浦の歌をはじめとして、讃酒歌十三首や、「故郷の家に還り入り即ちよめる歌」三首など、旅人の歌には連作としてみるのに適当な歌が、ことに多いと思われるのです。    人もなき空しき家は草枕       旅にまさりて苦しかりけり。(四五一) (人もいない空しい家は、旅にいるときにもまさって苦しいことだ。)    妹として二人作りしわが山斎《しま》は       木高くしげく成りにけるかも。(四五二) (妻と二人で作ったわが庭は、木も高くしげってしまった。)    わぎもこが植ゑし梅の木見るごとに       情《こころ》むせつつ涙し流る。(四五三) (わたしの妻が植えた梅の木をみるたびに、情がむせて涙が流れる。)  この三首をみても、旅人が故郷の家に帰ったとき、家の庭園その他を中心として、亡き妻を思慕している点で一貫しています。時間的にも同じときによまれたことは明らかであり、一首一首の独立性もあります。連作としてみるのに十分であります。  讃酒歌はさらに十三首という大きな規模のもとに酒を主題としてよまれています。これらの歌においては酒をたたえているのですが、たびたびのべたように、その根底には老荘思想があり、竹林の七賢人が理想とされています。そうして、現実的に利口ぶったりする態度が批判されているのです。老荘の思想から儒教的態度が非難されています。その点で、統一された主題がどの歌にもみられます。その上に、これらの十三首は、同じときによまれたのでしょう。 讃酒歌十三首は連作の典型[#「讃酒歌十三首は連作の典型」はゴシック体]  2の章でものべたように、土岐善麿氏は、この十三首の前にある、憶良の、    憶良らは今はまからむ子なくらむ       その彼《か》の母もあを待つらむぞ。(三三七) をあげ、憶良がこの歌をうたって席を退いたので、それに対して、旅人がこの一連の歌をよんだのではないかとされています。つまり、この十三首は同じときによんだことになります。それによらなくても、十三首は、同じときに、ふだん考えているところをよんだのでしょう。一首一首の独立性はあり、この一連を連作としてとりあげうるのです。左千夫が連作に対してあげた諸条件に照らしても、連作とするのにさしつかえないようです。  ただ、左千夫は、純客観の連作はあるとしても純主観の連作は成立し難いとしていますが、これは純客観とはいえないので、その点が左千夫の連作とする条件にあわないかもしれません。しかし、連作が純客観でなければならないということが、連作の条件にはならないことは、前にものべたところであります。その他の、左千夫のいう条件にはあてはまるようです。どのような連作論にしても、この讃酒歌十三首を連作でないとはいえません。むしろ、連作の典型ともいうべきものです。  その他、巻五にある梅花宴歌三十二首のあとにある、員外の故郷を思う歌二首や、のちに追加した梅の歌四首も、おそらく旅人のよんだ歌と思われますが、それは二首あるいは四首の連作といえるものになっています。 長歌による表現ができなかった[#「長歌による表現ができなかった」はゴシック体]  旅人はまた、梧桐の日本琴一面を贈ったときの一連の歌や、松浦川に遊んだときの、蓬客と娘らの唱和の歌十一首をよんでいます。これはおそらく、遊仙窟《ゆうせんくつ》という唐の張文成の書いた小説に学んだ、と思われる内容をもっており、形式的には唱和の形をなしていて連作とはいい難いかもしれません。ただこの場合にも、短歌一首だけでなく、数首の歌によって一つの主題を表現しようとする意図があるところに、連作の意図と共通するものがみられるのです。  旅人は、数首によって一つの主題を表わそうとする意図のもとに、種々の形態を試みたといえるのです。  といって、旅人は憶良のように、長歌の形態によって、その思想を盛ろうとはしません。旅人のやや素人《しろうと》的であり、また即興的な発想は、長歌的構成をとるには適しないことを、旅人自ら知っていたのでしょう。しかし短歌一首では、表わそうとする思想的なものを表わしきれなかったし、また、一首の中に思想や感情をもりこんで、重量感のある歌をよむには適さなかったとみられます。  そこで、どのようにしたら自分の表わそうとするものを表現しうるかに思いなやんで、松浦川の歌のような唱和の形式を用いたり、さらに連作的な形式をよんだりしたのではないかと思います。 むしろ意識的に連作形態をとる[#「むしろ意識的に連作形態をとる」はゴシック体]  このようにみるとき、旅人の歌には、万葉集の中でも連作の典型ともみるべき歌が多いことに気づくのです。これはただ偶然のことではなく、旅人はこのような連作形式を意識してよんだのでしょう。  万葉集のおもな歌人の特質を論ずるとき、種々の観点からとりあげられます。人麻呂を神話的世界から人間的世界への歌人とみるのに対して、旅人や憶良を人生や人間をうたった歌人であり、赤人や黒人を自然をうたった歌人であり、高橋虫麻呂を伝説をうたった歌人とすることもできます。それらに対して歌体のうえから、人麻呂は長歌にも短歌にもすぐれた歌人であり、憶良や虫麻呂は長歌にすぐれた歌人であり、旅人や赤人は短歌にすぐれた歌人とするのも一つの見方です。  ことに、旅人や黒人は純粋に短歌をよんだともいえるのです。女の歌人にしても、坂上郎女をのぞいては、短歌を主としてよんでいるといえます。  しかし万葉集の短歌をみても、一首だけで重量感のある短歌もあり、一首だけではやや物たりないが、数首まとめてみて、その特色をましてくる短歌もあります。そうして、人麻呂の短歌は一首ずつで重量感のある歌が多いのです。前にもあげた、    もののふの八十宇治川のあじろぎに       いさよふ波のゆくへ知らずも。(二六四)    近江の海《み》夕浪千鳥なが鳴けば       情《こころ》もしぬに古へおもほゆ。(二六六) などは、それぞれ重量感をもった歌です。 連作によってはじめてすぐれた効果[#「連作によってはじめてすぐれた効果」はゴシック体]  ところが旅人の歌は、一首として独立した短歌にはなっていますが、数首まとめてみて、その特色を発揮する歌が多いのです。讃酒歌十三首も、一首ずつはなしてみると、やや浅い感じがしますが、これをまとめてみると互いにひきたってきます。十三首まとめてみると、いっそうその特色がはっきりしてきます。つまり、十三首がまとまった一連となっているために、すぐれた効果をあげているのです。いわば、連作という形式の歌として生かされているのです。  旅人は、連作歌人としてはじめてその特色を表わしえたといえるのです。長歌をよむ代わりに、短歌を連作的によむことによって、その素質を生かしえたとみたいのです。  連作という形式は、古今集以降の勅撰集時代には、あまり行なわれませんでした。近世末に至って、木下幸文《きのしたたかぶみ》(一八二一年没 四十三歳)の「貧窮百首」や、橘曙覧《たちばなあけみ》(一八一二—一八六八年)の「独楽吟《どくらくぎん》」や「鉱山の歌」で、連作的な形式がとられ、明治以降には、連作形式が次第に有力な発表形式となっています。  今日では、短歌は一首ずつ発表される場合は少なく、連作としてよまれ、また発表される場合が多いのです。連作は俳句でも行なわれていますが、俳句では季語を入れるという制約があるために、連作としてやや重複感を与えます。短歌はその点で連作によむ上に適しています。  万葉集には、連作形式の歌が相当にあると思われますが、中でも旅人は連作的発想と形式とをもっとも効果的に用いています。ここに連作歌人として旅人をとりあげたのもその点にあるのです。そうして旅人は、このような連作という形態によって、老荘思想にもとづく独特の歌をよむとともに、人間性を自由に、また効果的に表現しています。 [#小見出し] 〈3〉万葉後期を飾る家持 歌をよむ環境に育つ[#「歌をよむ環境に育つ」はゴシック体]  大伴家持は、万葉集の後期を飾る歌人であるだけでなく、万葉集の編纂《へんさん》に深い関係のある歌人です。そうして、家持の人生行路に深い関係のあったのが橘諸兄《たちばなのもろえ》です。諸兄の庇護《ひご》をうけて、家持は官途についているのですが、その諸兄のすすめによって万葉集の編纂もなされているのです。そういうことを念頭において家持を語るとともに、万葉集の編纂についても語ってみたいのです。  家持は旅人の子として生まれ、旅人が天平三年に世を去った後は、大伴家を背負って衰えゆく一家を支えてきたのです。生没については諸説がありますが、わたしは養老元年(七一七年)に生まれ、延暦四年(七八五年)に六十九歳で没したとみておきます。そうすると、旅人が世を去った天平三年には、十五歳になっています。父の旅人が大宰帥として九州にあったころは、十四歳以前の少年であったのです。  旅人の妻の大伴郎女は旅人に従って九州へいくとまもなく世を去り、そのために、妹の坂上郎女が家事のため九州におもむいており、少年の家持も、その世話になったと思われます。大伴郎女は家持の実母ではなかったとする説もあります。坂上郎女は女の歌人として多くの歌を残しております。旅人のほかに山上憶良が筑前守として旅人と歌をよんでいることは前に申しましたが、こんな関係で、家持も早くから歌をよむことになったのです。 若い日のはなやかな抒情生活[#「若い日のはなやかな抒情生活」はゴシック体]  旅人が亡くなってからは、大伴家の一族では、旅人の弟の道足が参議となっておりますが、家持は旅人の長子としてしだいに大伴家を背負うようになるのです。  そのころから、葛城王が臣下に降って橘諸兄となり、参議から、天平十年には大納言になり、翌十一年には右大臣になります。それは、天平九年に左大臣であった藤原武智麻呂が病死し、ついで同年に藤原房前や宇合《うまかい》も病死したので、諸兄が政治的に中心の位置についたことであり、それから天平勝宝八年七十三歳で左大臣を退くまで、右大臣ついで左大臣の位置にあったのです。 [#官職(fig137.jpg、横294×縦397)]  この諸兄は大伴家の家持を常に庇護しており、この諸兄の推挙によって、家持はその位置を与えられるのです。天平十年の十月には、家持は内舎人になっています。二十二、三歳のときです。それから天平十八年、三十歳ごろに越中守となって赴任するまで、宮内官として青春多感の日を送ります。  家持の歌がみられるのは、天平元年に初月《みかづき》をよんだ、    ふりさけて三日月見れば一目見し       人の眉引《まゆびき》おもほゆるかも。(九九四) (ふり仰いで三日月をみると、一目みた人の眉のようすが思われるよ。) です。純な心持ちがうたわれています。それからの十数年、ことに宮内官になってからの年月には、笠女郎・紀女郎をはじめ多くの女性との贈答歌があります。この間、広嗣の変(天平十二年、七四〇年)もあり、また久邇京や難波京への都遷りの計画もあり、それらの場合にも、家持は、諸兄に常に随従しておりますが、青春の抒情生活ははなやかです。  家持は、すくなくとも若いときは、やせぎすの秀麗な貴公子型であったと思われますが、その家柄といい、多くの女性のあこがれの対象であったでしょう。中でも笠女郎との二十数首の歌は、その情熱を表現してすぐれた歌になっています。    夕されば物思ひまさる見し人の       言問ふすがたおもかげにして。(六〇二) (夕べになると物思いがまさる。会った人のものをいうすがたがおもかげにうかんで。)  この歌にも、夕べになって思う人の姿がおもかげにみえて物思いまさる恋心がうたわれています。しかし笠女郎との恋は実現せず、坂上郎女のむすめの、坂上大嬢との結婚が種々のいきさつの上で実現します。  天平十八年に、橘諸兄の推挙で、三十になったばかりの家持は越中守に赴任します。それは将来の多幸を思わせる任官ではあったのですが、かれを見送ってくれた弟書持は、越中へ赴任してまもなく病のために世を去り、また家持自身も、北越の冬の寒さに病をえて、九死一生のうき目にあいます。越中守であったのは五年ほどで、天平勝宝三年に都へ帰りますが、その間、各地を視察して回り、立山や二上山の長歌をよんだり、能登では熊来《くまき》酒屋でののしられている奴を歌によんだりします。歌の上でも試練の時代ですが、その間にすぐれた歌もしだいによまれます。    春の苑《その》くれなゐにほふ桃の花       下照る道にいでたつ|※[#「女+感」]嬬《をとめ》。(四一三九)    朝床に聞けば遙けし射水河《いみづがは》       朝こぎしつつうたふ船人。(四一五〇) の歌もそれです。前の歌は、春のそののくれないに照りはえている桃の花の下の道に少女がいで立っているという、絵のような風景がうたわれていますし、あとの歌は、はるかに射水川をさかのぼる船人の歌を、朝床の中で聞きながらよんでおり、射水川を朝こぎしながらうたう船人の声を、朝床で聞いて感にふけっているのです。自然のみつめ方が深くなっています。 [#小見出し] 〈4〉家持と万葉集の編集 橘諸兄に終始ひきたてられて[#「橘諸兄に終始ひきたてられて」はゴシック体]  この越中守時代に、都から橘諸兄の使いとして田辺福麻呂《たなべのさきまろ》がきます。福麻呂は諸兄の庇護のもとにある歌人で、久邇京に都が遷ろうとしたときに、家持とともに新都をことほぐ歌をよんでおります。  この福麻呂が家持のところへ諸兄の使いとしてきたのは、万葉集編纂のことが諸兄にあり、そのための相談ではないかとする説があります。もしそうとすれば、このあたりから諸兄と家持とによって万葉集編纂のことがはじまったとみられなくもありません。  家持は、天平勝宝三年(七五一年)に都へ帰ってきて、少納言になり、そのうち、諸兄の子の橘奈良麻呂が長官であった兵部省につとめることになります。この間におそらく万葉集編纂の仕事は順調に進んだとみられますし、帰京して兵部省につとめる数年のあいだに万葉集編纂は進んだのです。そうして、背後にあってこれを見守ったのは諸兄であるとみられます。  家持の万葉集編纂が越中守時代にある程度進んだとすれば、それは巻三、巻四、巻六、巻八などであり、巻一、巻二のような、家持以外の人によって編纂された勅撰に準ずるものであったかもしれません。それが諸兄を中心として進められた巻々であったかもしれません。そうして、それらを出発とし、よりどころとして家持によって編纂が進められたのです。 編集の進行と深まる人生の哀感[#「編集の進行と深まる人生の哀感」はゴシック体]  越中守時代に書きつがれていった巻十七、巻十八などの歌日記は、都に帰ってからも書き進められるとともに、巻十六のような越中の民謡などの書きとめられた歌ノートもまとまっていったのです。巻二十の防人歌《さきもりのうた》は、巻十四の東歌《あずまうた》の補遺のような性質がありますが、しかし、兵部少輔であった家持の地位を利用して防人の歌が集められたことは明らかです。  この場合にも、兵部省の長官であった奈良麻呂のすすめもあったかもしれませんし、奈良麻呂の父の諸兄のすすめもあったかとも推測されます。  こういう万葉集編纂のことが進められるあいだに、家持の歌境も深まってきます。家持の歌の窮極の境地ともいうべき、    春の野に霞たなびきうらかなし       この夕影に鶯《うぐひす》鳴くも。(四二九〇)    わが宿のいささむら竹吹く風の       音のかそけきこの夕べかも。(四二九一)    うらうらに照れる春日に雲雀《ひばり》あがり       心かなしもひとりし思へば。(四二九二) は、天平勝宝四年二月によまれており、はじめの二首は二十三日によまれ、あとの一首は二十五日によまれています。都へ帰った翌年で、三十八歳ごろの作です。これらの歌は、自然の観照からはいっておりますが、家持の心境と融合しており、人生に対する哀感ともなっています。どの歌も素材を単純化して表現を集中化しておりますが、その中に孤独なかなしみがにじみ出ております。  このころには、諸兄は左大臣として政治の中枢におりますが、すでに老いんとし、一方藤原氏はしだいに勢力を回復してきております。天平勝宝四年には、諸兄は六十九歳であり、右大臣の藤原豊成は四十九歳です。 万葉の終末を象徴する山陰の雪[#「万葉の終末を象徴する山陰の雪」はゴシック体]  天平勝宝八年二月に、七十三歳の諸兄は左大臣を辞しており、翌九年正月六日に世を去っております。諸兄がなくなるとまもなく、その子奈良麻呂の乱が起こり、橘家は失脚するとともに、大伴家一族もまた多く失脚するのです。そうして、天平宝字二年には、家持は因幡守《いなばのかみ》になって山陰に下ります。罪は免れましたが、四十三歳にもなって僻遠《へきえん》の地の国司になった家持の心境には、晴れやかでないものがあったでしょう。三十歳の少壮で越中守になったときとは異なって、諸兄死後のさびしい心境がうかがわれます。  万葉集巻二十は、防人の歌のあとに若干の歌があり、家持は右中弁《うちゆうべん》としてその歌がみえていますが、最後の歌は、天平宝字三年正月一日に因幡国庁で、国郡司らとの宴での歌で、    新しき年のはじめの初春の       今日ふる雪のいやしけよごと。(四五一六) とあります。新年の雪のしきりに降るように、よい事がいよいよ重なるように、という意味です。罪を免れて山陰の僻遠ながら国司として、国郡司らと宴をしながら、雪の降るのをみてよんだこの歌は、万葉の終焉《しゆうえん》を象徴するように感じられます。  万葉集巻二十が防人歌を終わりにおいたのは、その成立した時期を想像させますが、天平宝字三年、因幡国での歌があるのは、因幡守になってからも書きつがれたようです。しかし因幡での歌がこの一首だけであるのは、この歌は、巻尾に一首書き添えたものというようにも解されるのです。  ともあれ、家持の、歌人としての活躍にしても、万葉集編纂にしても、さらに家持の官職にしても、諸兄の在世中は、諸兄を離れては考えられないようです。  諸兄が世を去ってからも、家持は二十余年ながらえて官途につき、終わりには中納言になっていますが、溌剌すたるものを失っております。八月庚寅の日に死んで、二十余日も遺骸が葬られなかったということは、同じく中納言、藤原氏の式家種継を射殺した大伴継人らと、事をともにした嫌疑によるものですが、そこには衰えてゆく大伴家の末路が表われているようです。 [#扉6(chapter6.jpg)]  6 都会歌と地方歌 [#小見出し] 〈1〉都会歌と地方歌 都会人がよんだ地方歌もある[#「都会人がよんだ地方歌もある」はゴシック体]  万葉集の歌を、時間によって、その展開を跡づけるとともに、空間によって、その類型をわけることができます。  もとより、地域的な区分をたてても、その間に時間的展開とからみあうことはいうまでもないのですが、空間的、地域的な点から万葉歌をわけるとき、都会歌と地方歌という二つの類型にわけることもできます。そうして都会歌の場合は、都会人が都会でよんだ歌といってよいのですが、地方歌の場合は、地方人が地方でよんだときと、都会人が地方でよんだ歌とがあります。  地方歌という場合は、地方人が地方でよんだ歌が主ではありますが、万葉集には都会人が地方でよんだ歌も少なくないので、この両方を包含する場合もありうるのです。人麻呂が石見でよんだ歌や、家持が越中でよんだ歌などは、よまれた場所からいえば地方歌といえなくもありません。しかしそれらは、歌風的にいえば都会歌といってもよいものです。東歌《あずまうた》になると、作者からいっても地方歌というべきであります。しかし、この場合にも東歌の作者について、都会人が地方でよんだ歌もあることは指摘されています。  武田祐吉博士は、地名のよみこまれた歌は、都会人が地方にきてよんだ歌とされましたが(上代国文学の研究)、これについては異見もあり、地名の点だけでは定められないといってよいのです。ただ、東歌の中には、歌風からいって都会人が旅にきてよんだとみられる歌も、あることは明らかです。 それでも都会にない風土をうつす[#「それでも都会にない風土をうつす」はゴシック体]  このようにみるとき、都会歌と地方歌とにわけても、具体的にはどの歌をさすかということは、簡単には定め難いものがありますが、この両者について、その文学差を説くためには、都会歌と地方歌との区分をさらに具体的に説いておかねばなりません。そうして、文学差を考察するためには、都会人が地方でよんだ歌、たとえば、人麻呂の石見の歌や家持の越中の歌などを地方的とすることは、適当ではないでしょう。  ただ、風土の文学に与える影響をとりあげるとき、人麻呂の石見における歌が、石見の風土の影響がないとはいえません。すくなくとも、素材的には都会ではよまれない、その地方の自然や事柄がよまれています。たとえば、2の章でもあげたように、    ささの葉はみ山もさやにさやげども       われは妹思ふ別れ来ぬれば。(一三三) という歌によまれた「ささ」は石見の高角山にある笹であって、その笹のさやぐのも、石見の風土の中でさやいでいるのを、人麻呂がながめてよんだのです。「石見の海角《うみつの》の浦みを浦無しと」云々(一三一)とよんだのも、石見の海を人麻呂がながめたその体験をよんでいるのです。これらは都会の風土の中ではよみえない、地方の生活の中ではじめてよみえた、ということができるのです。  これは家持の越中の歌においても同様です。家持は、越中の風土が大和の風土と異なっていることを自覚しています。ほととぎすが、大和では鳴くべき季節に、越中ではまだ鳴かないことを記しています。 まとまった地方歌、東歌と防人歌[#「まとまった地方歌、東歌と防人歌」はゴシック体]    もののふの八十をとめらがくみまがふ       寺井の上の堅香子《かたかご》の花。(四一四三) (多くの少女が、そのためにくむ場所がわからないほどに、寺井の上にかたかごの花が咲いている。) という歌の堅香子の花にしても、越中の風土の中で見た花であり、この花をよむことに越中の風土が反映しているといえなくはないのです。  ですから、都会人が地方でよんだ歌も、地方歌としての性格の一面をもっているのですが、地方人が地方でよんだ歌とは区別して、一方を地方歌とするならば、これを準地方歌とすべきであります。そのために、地方人が地方でよんだ歌がどれほどあるかを、定めておくことが必要になります。  これについては、万葉集の巻々の中で、地方歌だけを集めた意味で、巻十四の東歌があげられますし、それについて、巻二十の一部を占める防人歌があります。東歌の中には準地方歌というべき、都会人が東国でよんだ歌もあるのですが、大部分は東国人が東国でよんだ歌であるといえますし、防人歌も、東国人が防人に遣わされるときの歌であって、よんだ場合は特殊ですが、地方歌といえるのです。 全体としては都会歌がはるかに多い[#「全体としては都会歌がはるかに多い」はゴシック体]  その他、作者未詳の歌には地方歌が多くあり、巻十六には、越中地方の民謡が若干あります。家持時代、越中に属した能登の歌には、地方歌とみるべきものがあります。  能登国三首とある、    はしだての 熊来《くまき》酒屋に まぬらる奴わし       さすひ立て ゐて来なましを まぬらる奴わし。(三八七九) (はしだての熊来の酒屋でののしられている奴よ。誘ってつれてきたかったよ。ののしられている奴よ。) その他の歌や、越中国歌四首とある歌、乞食者詠二首など、いずれも地方歌とみるべきであります。また、巻四にある、     藤原|宇合《うまかひ》大夫任を遷りて京に上るの時、常陸《ひたち》娘子《をとめ》の贈る歌    庭に立つ麻を刈りほししきしのぶ       東女《あづまをみな》を忘れたまふな。(五二一) (庭に立っている麻を刈りほしては、それを敷いてはあなたのことを思う、東女を忘れてくださるな。) や、大伴旅人が大宰帥から大納言となって都へ上るときに、別れを惜しんでよんだ遊女の歌も、地方で地方人のよんだ歌といえるでしょう。ただこれらは、都会人との贈答の歌ですから、純粋の地方歌といえない点があります。  ともあれ、このように、地方における地方人の歌をとりあげていくことは、それ以外の歌は都会人の歌である、ということになります。全体としては、万葉集は地方歌よりも都会歌の方が、はるかに多いということになるのですが、地方歌も相当の数にはなります。 [#小見出し] 〈2〉都会歌と地方歌のちがい 一方は貴族文学、他方は庶民文学[#「一方は貴族文学、他方は庶民文学」はゴシック体]  都会歌と地方歌との所在を考えてみましたが、つぎに、その文学差はどこにあるかについて考察してみます。  都会歌と地方歌は、作者と場所との上で異なるのですが、作品そのものも、この二つの相違に影響されます。この中で、作者の相違ということは、だいたいにおいて、貴族文学と庶民文学との相違になります。万葉集は貴族文学か庶民文学かということがしばしばいわれ、2の章でものべたように、それには、貴族文学的性格もあれば庶民文学的性格もあるのです。そうして、都会歌はだいたいにおいて貴族文学的性格が主であり、地方歌は庶民文学的性格が著しいのです。  都会歌は、作者が宮廷を中心としており、主要歌人をみても、人麻呂・赤人・黒人のような宮廷供奉の歌人か、旅人・憶良・家持のような、大納言や大宰帥や国司などの官僚が多いのです。それが都会歌に貴族文学の性格をおびさせることにもなっています。地方歌は農民その他の庶民の作が多く、したがって、庶民的性格をおびさせるのであります。 一方は山間文学、他方は海辺文学[#「一方は山間文学、他方は海辺文学」はゴシック体]  つぎに、場所もしくは地域の上から、都会と地方ということは、その作品の上にも大きな影響を与えています。ここでいう都会は都の所在地であり、万葉集では、大和の飛鳥京や藤原京や奈良などをさしています。同じ都でも、現在は海辺に接する東京ですが、大和の都は平安の京都と同じく山間の地域です。ですから、万葉集の都会歌は、だいたいにおいて山間文学といえます。それに対して地方歌は地域的なひろがりを有しています。  信濃地方のような山間の地域の作品もありますが、海辺に接した地域が多いのです。東海道を通って常陸に至る地域が東歌のよまれた地方ですが、西は大阪から瀬戸内海を通って九州に至る地域、南は紀伊の地方、北は近江から越中に至り、さらに石見に至る日本海に沿った地域であります。  しかし地方といっても、これらは、都会人が国司その他の任務のために地方に下り、そこで歌をよんでいるのであって、地方人がその地方でよんだ歌は東歌や防人歌がもっとも著しく、その他、越中・能登地方の歌が存する程度ですから、地方歌の風土性は東海道から武蔵・常陸などの地域や信州・上野・下野などの地域の風土性といった方がよいでしょう。それは、都会歌が大和の山間の歌であるのに対して、地方歌は山間地域もあるけれども、主として海辺地域の風土を反映している海辺文学といえるでしょう。 [#万葉の風土圏(fig153.jpg、横400×縦323)] 素朴な方言が地方歌の一特色[#「素朴な方言が地方歌の一特色」はゴシック体]  言葉の上でも、東歌は東国方言がよみこまれています。都の言葉が洗練されているのに対して、東国方言は素朴な点のあるのはいうまでもないのですが、そういう素朴な方言のよみこまれていることが、地方歌の一つの特色にもなっています。東歌の中でも、    なつそひく海上潟のおきつすに       舟はとどめむさ夜ふけにけり。(三三四八) (海上潟の沖の方に舟はとめよう。夜もふけたので。) のような、東国方言が用いられていないばかりでなく、表現も洗練されている歌が、地方人の歌でなく、都会人の旅の歌であるとされるのも、そういう点からきているのです。    筑波ねに雪かも降らるいなをかも       かなしき児ろがにぬほさるかも。(三三五一) (筑波のみねに雪が降ったのだろうか。そうではなく、愛する子が布をほしたのだ。) のような、東国方言がよみこまれている歌に比べて、相違が感じられるのも、地方の方言が作品に与えた影響といえるのです。この点は、東歌だけではありません。さきにあげた能登国の歌の、「はしだての 熊来酒屋に まぬらる奴わし」にしても、その地方の方言がよみこまれており、この歌の、地方歌としての特色となっているのです。  文学は言語の芸術ですから、言語の特色は、文学の上にも大きく反映してきます。万葉集は、全体として素朴であるといわれていますが、細かくいえば、それは地方歌においてあてはまるのです。東国方言を用いた東歌は、歌風的にいっても素朴といえるのですが、それは、方言そのもののもつ素朴性と通ずるものがあるのです。 記載性と伝誦性とのちがい[#「記載性と伝誦性とのちがい」はゴシック体]  もとより、都会歌の洗練性と地方歌の素朴性とは、言語だけの問題ではありません。その一つは伝誦性と記載性との相違です。  万葉集の歌に、歌謡とみるべき歌がどれほどあるかは、考究すべき問題ですが、都会歌よりも地方歌に伝誦歌が多いことは明らかです。  伝誦歌については、その研究も進んできており、久米常民氏の『万葉集の誦詠歌』という研究も発表されましたが、宴席で謡《うた》われた歌については、左注にも記してある場合があります。    かるうすは田ぶせのもとにわがせこは       にふぶにゑみて立ちませり見ゆ。(三八一七) (かるうす=唐臼=は田のそばに、わたしの夫はほほえみながら立っているのが見える。)    朝霞かび屋が下の鳴くかはづ       しのびつつありと告げむ児もがも。(三八一八) (朝の霞の中で、鹿火屋《かびや》=番人小屋=の下で蛙が鳴いている。こんなとき思い出していると告げる児があったらよいに。)  これらの歌の左注には、 [#この行4字下げ]「右の歌二首は河村王の宴居の時に琴を弾じてすなはち先づこの歌を誦するをもって常行となす也。」 とあって、宴席で琴をひきながら誦したことは明らかですが、これらの歌が、はじめから伝誦されたかどうかには疑問があります。記載歌としてよまれた歌が、のちに宴席で誦せられたのかもしれません。歌調などからすると、必ずしも歌謡とは見難いものがあります。それに比べて「能登国歌三首」や「乞食者詠二首」などは、伝誦された歌であることは歌調からみても明らかです。 東歌に濃い集団的歌謡性[#「東歌に濃い集団的歌謡性」はゴシック体]  東歌の中にも、歌調からみても伝誦されたとみられる歌が多くあります。方言のよみこまれている歌は、そういう歌謡性をもった歌である場合が多いのです。民謡というべき歌です。つまり、万葉集の地方歌は、歌謡とみるべき歌が多いのです。  歌謡には、だいたいにおいて、個性的な歌は少なく、民衆の心を表わした歌、村の若い男女の心情を代表した歌が多いのです。ですから、村の若い男女によって共通に謡われるのです。東歌を歌謡としてしまうことには異論がありましょうが、歌謡的な性格をもつということはいえます。それが、記載歌が主となっている都会歌と相違する一つの点です。  それと関連する点ですが、東歌には、男女いずれの歌であるか明らかでないものがあります。    伊豆の海にたつ白波のありつつも       つぎなむものをみだれしめめや。(三三六〇) (伊豆の海にたつ白波のように、そのままでつづけていきたいのに、心を乱れさせることがなければよい。) は、或本歌に、    白雲のたえつつもつがむともへや乱れそめけむ (白雲が、絶えてもまたわき出るように、いつまでもつづくようにと思っていたのに、どうして乱れはじめたか。) とありますが、この或本歌は、土屋文明氏の私注にもいわれるように、答歌とみるべきでしょう。これを相聞歌とみるとき、「伊豆の海にたつ白波の」は女性であって、或本歌の方が男性ともみられますが、しかしその反対にもみられます。こういう場合はほかにもありますが、歌謡にあっては、そのような点が多いのは、個性的でなく集団的であるためでしょう。 知性的に対して地方歌は感性的[#「知性的に対して地方歌は感性的」はゴシック体]  万葉集の都会歌と地方歌との相違はさらに種々の点があげられます。都会歌は作者の明らかな作が多く、都会の貴族や官僚の作品が多いために、感性と知性とをそなえた歌が多いのです。憶良・旅人のような、外来思想をうたった知性歌人は、都会歌にだけ見出されます。それに比べて地方歌は、名もない庶民の歌が多いために、知性的よりは感性的な作品が多いのです。また、生活をそのままにうたい、東歌には農耕人の生活がうたわれている場合が多いのです。  恋愛感情にしても、生活の中にとけこんだ歌が多く、これに対して都会歌に、思想がよまれ、知性がよまれるということは、一方では生活を観念化することにもなります。恋愛の歌にも、生活に即してうたうよりは、恋愛を観念化してうたう場合が生じてきます。  たとえば広河女王(穂積皇子の孫女)の歌に、    恋草を力車に七車       積みて恋ふらくわが心から。(六九四) (恋の草を力車に七車つんで恋うていますよ、わたしのせいで。)    恋は今は有らじと吾れは念へるを       いづくの恋かつかみかかれる。(六九五) (恋はもうすんだとわたしは思っていますのに、どこの恋かつかみかかってきましたよ。)  この歌などは、恋の観念化といってよく、実感はないのです。 著しい時間の推移と停滞[#「著しい時間の推移と停滞」はゴシック体]  もとより、こういう点は、万葉集よりは古今集に至っていっそうはなはだしくなるのですが、万葉集においても、都会歌にはこういう歌も、すでにみられるのです。ことに後期になるにしたがって、そういう傾向がみられます。女の歌人の歌でも広河女王だけでなく、坂上郎女や紀女郎などの歌には、こういう傾向の歌がみられるのです。  そうして都会歌は、都という政治や文化の中心地でよまれただけに、時間による推移が著しく、歌風の展開もはっきり認められます。しかし地方歌は、政治や文化の中心から離れた地域であるために、時間による推移が緩慢《かんまん》です。展開がほとんどみられないのです。東歌のよまれた年代は、必ずしも明らかではありませんが、万葉の時期区分からいえば、奈良に都されてからの作品であり、第三期から第四期の作品であると思います。  防人歌は第四期の歌です。それに、都会歌に比べて時間による推移がみられないのです。素朴な歌ですが、都会歌では、素朴から完成を経て爛熟《らんじゆく》期にはいった年代の歌とみてよいでしょう。都会歌と地方歌との相違はそういう点にもみられるのです。 価値からみてどちらが重いか[#「価値からみてどちらが重いか」はゴシック体]  都会歌と地方歌との相違をみてきましたが、価値的にみて、どちらに重きをおくべきでしょうか。  万葉集の歌を、真実の感動の率直な表現からくる力強い調べの歌とみて、それを万葉歌の価値基準におくとき、都会歌も地方歌も、その基準に照らして万葉的なものを表わしているでしょう。ただ万葉集の歌にも、素朴から完成を経て爛熟していく過程をみるとき、都会歌はそういう段階をそれぞれたどっているのですが、地方歌は、素朴という段階のままでとどまっているのです。それだけ展開がないのです。  貴族文学よりも庶民文学を重んじ、美意識のみられる歌よりも、生活の歌を重んずる立場から、東歌の価値を高くみる見方もあります。万葉集の歌を、ただ素朴の文学とみる立場からは東歌、したがって、地方歌はもっとも万葉的であるともいえますが、万葉も素朴・完成・爛熟の過程をたどっている点に、その全き姿や様式があるとすれば、地方歌の特色を認めるとともに、都会歌によって、万葉集の、より全き姿を認めうるのです。 [#扉7(chapter7.jpg)]  7 万葉の湖畔詩 [#小見出し] 〈1〉湖畔詩人赤人 藤原家の山池をうたえる歌一首[#「藤原家の山池をうたえる歌一首」はゴシック体]  万葉の中に、湖畔《こはん》詩人といってよい歌人を、はっきりあげることはできなくても、湖畔詩をあげることはできます。イギリスでは湖畔詩人といえばワーズワース(一七七〇—一八五〇年)をあげることは常識です。かれは三十歳ごろから北英湖水地方の中心であるグラスミア湖のほとりに住み、序曲(prelude)をはじめすぐれた詩をよんでいます。日本で湖畔詩人をあげるとすれば芭蕉でありましょう。蕉風の開眼の句ともいわれる、    古池や蛙飛びこむ水の音 には、古池に蛙が飛びこんで、じゃぶんと音のするその中に、閑寂の趣を表わしています。自然の静寂が感じられて湖畔詩とするのにふさわしいのです。その他、芭蕉が琵琶湖畔にいくばくかの日月を住んで『幻住庵記《げんじゆうあんき》』を書き、また「唐崎の松は花より朧にて」その他の湖畔の詩をよんだのは湖畔詩人としてもみられるのです。しかし、万葉集の中にも3の章でのべたように、古池の句の境地に近い歌はすでにあります。 [#この行4字下げ]山部|宿禰《すくね》赤人故太政大臣藤原家の山池を詠める歌一首    古へのふるき堤は年深み       池のなぎさに水草生ひにけり。(三七八) (昔のふるい堤は年月がたったので、池の渚に水草がはえた。)  この歌は山の池の静寂をよく表わしている、すぐれた湖畔詩というべきです。 年深む静寂と清澄の美[#「年深む静寂と清澄の美」はゴシック体]  故太政大臣藤原家というのは藤原不比等です。かれは養老四年八月(七二〇年)に世を去っています。不比等のような権門の人にしても、その死後は庭も荒廃していたのでしょう。この歌は、そういう権門の家の主人なきあとの荒廃をうたったというよりも、静寂な自然の美をうたうことに中心があるとみられます。  この場合の年深みは、長い年月がたったので、という意味でしょう。万葉集では、年深みは、天平十六年正月十一日(七四四年)に「活道岡《いくぢのをか》にのぼって一株の松下に集って飲む歌二首」として家持のよんだ歌の一首、    一つ松幾代か経ぬる吹く風の       声の清《す》めるは年深みかも。(一〇四二) (一つ松は幾代を経たのであろうか。吹く風の声の清んでいるのは、年が多くたっているのであろう。) にもみえています。年深みは、長い年月がたっていることを表わしています。この歌にも、静寂もしくは清澄の趣がみえますが、それよりもいっそう赤人の歌には閑寂の美が感じられ、湖畔詩としての性格をみるのです。  やはり、3の章ですでにのべたように、同じ水辺でも、湖畔は海辺や海洋のように茫洋《ぼうよう》とした点や雄大な点がなく、また河畔のように流動的でもなく、清澄で沈潜的である点に特色があります。山岳のもつ不動な点があり、そこに宗教的な神秘感も伴うのです。  その点から、静寂な美をもち、このような湖畔の性格が湖畔文学、湖畔詩の特色となるのです。 そのすぐれた山間文学に通じるもの[#「そのすぐれた山間文学に通じるもの」はゴシック体]  山部赤人の自然の歌には、田子の浦の歌、和歌の浦の歌、辛荷《からに》島を過ぎるときの長歌や反歌、敏馬《みぬめ》浦を過ぎるときの長歌や反歌など、海辺の歌もありますが、全体からいうと山間の歌が多く、その方の歌にすぐれています。吉野の歌や富士山の歌のように、それぞれすぐれた歌ですが、ことに吉野の歌には、静寂な山の自然の美がよく表われています。  赤人を、同じ叙景詩人でも、山の詩人とするのは、山部という氏からくる山林に関した部に属したという点を考慮しなくともいえることです。そうして湖畔文学は山間文学と共通する点が少なくないのです。山間詩人である赤人が、一方において湖畔詩人と通ずるものがあるのは当然なことです。  赤人には「古への」の歌のほかに、湖畔をよんだ歌は見当たらないのですが、この歌一首だけでも湖畔詩人の趣があるといってよいのです。 [#小見出し] 〈2〉琵琶湖畔の歌 悲愁にみちた荒都への感慨[#「悲愁にみちた荒都への感慨」はゴシック体]  万葉集のうちに湖畔をうたった歌をあげるとき、第一にあげなければならないのは琵琶湖畔の歌です。万葉集だけでなく、古代・中世・近世の文学を通して、湖畔といえば琵琶湖畔があげられます。琵琶湖畔は、風土的にみて湖畔を代表するだけでなく、歴史的にもさまざまの事件が起こっています。万葉集では天智天皇の都された所として著名ですが、しかも壬申《じんしん》の乱(六七二年)によってこの都はたちまち古き都となり、荒廃していきます。  琵琶湖畔はその点で悲愁にみちた荒都であり、歴史と風土との両方面から感慨をもよおさせることは、吉野と同様です。これほど湖畔文学を生み出すにふさわしい所はないのです。万葉集の中から、琵琶湖畔の悲愁をうたった歌をあげることはまことに容易です。  柿本人麻呂が近江荒都を過ぎるときの長歌は、そのような湖畔詩としてあげることができます。ただ、人麻呂の歌はそういう場合に、風土としての湖畔よりも歴史としての荒都に重点をおいています。長歌はことにそうですが、反歌の、    さざなみの志賀の辛崎さきくあれど       大宮人の船待ちかねつ。(三〇) (近江の志賀の辛崎は、昔のままであるが、大宮人の船を待ちかねている。)    さざなみの志賀の大和田よどむとも       昔の人にまたも逢はめやも。(三一) (琵琶湖畔の志賀の大和田は、水がよどんでいても、昔の人にまた会えようか。もう会えない。) にしても、風土としての湖畔をうたっていますが、古都としての感慨の方が主になっています。 感慨ととけ合った人麻呂の湖畔美[#「感慨ととけ合った人麻呂の湖畔美」はゴシック体]  それは高市古人(高市黒人が自分を古人としてうたったともみられる)の歌にしてもそうです。これは主題が旧都・荒都をうたうことにあったからでしょう。    古への人にわれ有れやさざなみの       古き都を見れば悲しき。(三二) (わたしは古の人であるか。そうでもないのに、古い都をみると悲しくなる。)    さざなみの国つみ神のうらさびて       荒れたる都見れば悲しも。(三三) (近江の国の、国土の神が心さびしくて荒れてしまった都をみると、悲しくなる。) をみるとき、古き都ということが主であって、湖畔としての美は、わずかに「さざなみの」という枕詞《まくらことば》によって表わされているだけです。もとより「さざなみの」という枕詞はそれだけで湖畔の美を連想させるものがあることは、いうまでもありません。  これらの歌に比べると、前にもあげた人麻呂の、    近江の海《み》夕浪千鳥なが鳴けば       情もしぬに古へおもほゆ。(二六六) (近江の海の夕べの浪に鳴く千鳥よ、お前が鳴くと心もふさいで古のことが思われる。) の歌になりますと、古都への感慨もありますが、湖畔の風景がよくうたわれています。夕浪千鳥という語だけからでもそれが感じられるのです。それと古都への感慨とがとけ合ってすぐれた湖畔詩となっています。近江荒都を過ぐる長歌や反歌よりも、人麻呂の湖畔詩として、この歌に心をひかれます。 風土として展開した黒人の動的な手法[#「風土として展開した黒人の動的な手法」はゴシック体]  これと対照して、高市黒人が琵琶湖畔でよんだ歌、    磯の崎こぎたみ行けば近江の海《み》       八十の湊《みなと》にたづさはに鳴く。(二七三) (磯の崎をこぎ回っていくと、目の前にひらけてきた近江の海の多くの湊に、たづがたくさん鳴いている。)    わが船はひらの湊に漕《こ》ぎはてむ       沖へなさかりさ夜ふけにけり。(二七四) (わたしの舟は比良の湊まで漕いで、今夜はとまろう。沖へ離れていかないでくれ。夜もふけたので。) になると、人麻呂の歌と異なって、旧都という歴史的なものを離れ、風土としての湖畔が主になっています。前者では、黒人の手法でもある、場景の新しい展開がうたわれています。磯の崎をこいでその崎の所までいきますと、急に新しく八十の湊がみえてきて、そこに多くの「たづ」の姿が見えてくるという、湖畔の風景が動的に描かれています。これは海辺風景ではありますが、同じ黒人の、    しはつ山打ち越え見れば笠縫の       島こぎかくる棚無小船。(二七二) (四極山《しはつやま》を越えてみると、笠縫の島にこぎかくれていく棚無小船がみえる。)≪四極山や笠縫島は摂津の海辺であるとも三河の海辺であるともいう≫ の歌にも同様にみられるし、後の実朝の「箱根路をわが越えくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄る見ゆ。」にしても同じ手法がとられています。 断続する韻律の中にもる寂寥感[#「断続する韻律の中にもる寂寥感」はゴシック体]  こういう手法は、おそらく黒人の歌がはじめでしょう。 「わが船はひらの港に」の歌には、夜のとばりにつつまれた琵琶湖畔が抒情味をたたえてうたわれています。三句で切れて、四句で切れる歌ですが、こういう四句切は万葉集に多く、それは二句切と伴う場合が多いのです。三句切は古今集以後に多くなってきます。古今集以後は初句切三句切が多いのです。万葉集には二句切三句切の歌、たとえば、再度あげた、    憶良らは今はまからむ子なくらむ       そのかの母もあを待つらむぞ。 のような歌と、三句切四句切の歌とがあり、これらはそれぞれ韻律として特殊な性質をもっています。いずれも上句と下句とにわかれてきていますが、二句切三句切では、上句が断続的な調べになり、三句切四句切では、下句が断続的になってきます。いずれも万葉的な、素朴な調べの中にあって、清新な韻律感を与えるのです。  この歌はそういう断続的な韻律の中に、湖畔の風景を描いて、旅の寂寥が感じられます。人麻呂の「近江の海《み》」の歌と合わせて、この三首は万葉集の湖畔詩としてもっとも注目したいのです。 湖畔の静寂美に通じるものとして[#「湖畔の静寂美に通じるものとして」はゴシック体]  万葉集では、琵琶湖のほかにも湖や池はうたわれており、3の章でのべたように、香具山の麓《ふもと》にあったという埴安池《はにやすのいけ》の歌もあります。この埴安池は、今はありませんが、昔は相当に大きな池であったのでしょう。  巻一のはじめの方にある「天皇香具山に登りて国を望ます時、よみませる歌」の、「国原は煙立ちたつ海原はかまめ立ちたつ」(二) の海原が、埴安池をさすとみるのが穏当であることも、3の章でのべました。中西悟堂氏によると、かもめにも種々の種類があり、池にくるかもめもいるとのことです。ただ、これは国見の歌で、湖畔詩というにはふさわしくありません。  日並皇子の殯宮《ひんきゆう》のときの、人麻呂の長歌の反歌に、    島の宮|勾《まがり》の池の放鳥《はなちとり》       人目に恋ひて池にかづかず。(一七〇) (島の宮勾の池の放鳥が、人目をしたって池にくぐらずにいる。) とあり、舎人らの慟《なげ》き傷む歌の中にも、    み立《た》たしの島の荒磯《ありそ》を今見れば       生ひざりし草生ひにけるかも。(一八一) (ありし日に、皇子がお立ちになった島の荒磯を見ると、今までは生えなかった草が生えてしまった。) という歌もあります。これらを湖畔詩とすることは必ずしも適当ではないのですが、池畔のもつ静寂な境地をうたっている点では、赤人の山池をよんだ歌に似ています。 [#扉8(chapter8.jpg)]  8 万葉集と花鳥風月 [#小見出し] 〈1〉春は梅の花から 四季をいろどる花鳥風月[#「四季をいろどる花鳥風月」はゴシック体]  花鳥風月という語があります。花や鳥、風や月は自然を美しくするもの、もしくは自然そのものですが、山や水と異なって季節の美をよく表わしています。山や水が自然を構成する骨格であるならば、花鳥風月はそれを色どり、季節の移りゆきを表わす皮膚のようなものです。花の咲くことによって季節の推移が感じられます。花紅葉や飛花落葉は春と秋との季節をよく表わしています。それは季節の美でもあります。  梅や桜のような春咲く花、卯の花のように夏咲く花、萩や撫子のように秋咲く花があり、それに、秋には紅葉(万葉集では多く黄葉)があります。そうして、春の鶯《うぐいす》、夏の時鳥《ほととぎす》、秋の鹿など、季節をもっともよく表わしています。月や風は季節によって変わらないともいえますが、朧《おぼ》ろな春の月、澄みきった秋の月というように、季節と結びついており、風も春風・秋風・木枯のように季節によって異なります。この点では、雨にしても春雨・秋雨・時雨というように季節によって区別されます。雪やみぞれなど冬の季節だけのものもあります。  ともあれ、花鳥風月は、山や水とともに自然の美を添え、季節感を表わすものとして文学に扱われ、万葉集にもうたわれております。  そういう点から、花鳥風月によって万葉の美をみることもできるのです。また、古今集以降ほどに花鳥風月が類型化していない点に、万葉集の自然のとりあげ方の特色もあるのです。それは古今集以降のように、四季による分類が行なわれていない点にもみられます。それでも、巻八では雑歌や相聞を春夏、秋冬に細かくわけておりますし、花鳥風月に即して季節の美がうたわれています。  ここでは花鳥風月のすべてにわたって万葉の自然美や季節美をのべていく余裕もありませんので、花だけをとりあげ、それも春の花について、歌を味わいながら申していきたいのです。 春の花といえばまず第一に梅[#「春の花といえばまず第一に梅」はゴシック体]  花鳥風月のうちで花は季節をもっともよく表わしております。  中世になって盛んになった華道では季節の花を重んじており、また、連歌においても、発句に季節のものをよみこむようになったことは、二条良基(一三二〇—一三八八年)も、『筑波問答』に説いております。それが俳句の季語にも関係してくるのです。自然を愛する国民性が、こういう点にも現われています。  万葉集には、約百八十余種の植物がよまれていますが、そのなかで、春の花というと、まず梅があげられます。梅はもと中国から渡ってきた植物であり、桜の方が、日本の固有の花として愛せられていたにもかかわらず、万葉集では、桜よりも梅の方がはるかに多いのです。桜が四十二首の歌にうたわれているのに対して、梅は百十八首にうたわれています。  梅は万葉時代には、中国渡来の花として珍重されただけでなく、大伴旅人や山上憶良を中心として、筑紫の大宰府で梅花宴が行なわれ、一度に三十八首の歌がよまれていることも関係があって、数の上から単純にきめてしまうことはできませんが、梅が愛されていたことは明らかです。 梅に鶯や竹林を配して[#「梅に鶯や竹林を配して」はゴシック体]  梅は桜とちがって、花の色だけでなく香がすぐれており、また、花だけでなく、枝や幹に趣があるので、その鑑賞せられる範囲も広いのです。それに、万葉集の梅の歌をみても「むつきたち春の来らば」とか「春さればまづ咲くやどの梅の花」とかあるように、春のはじめに咲くことに心をひかれているようです。ただ梅については、    春雨を待つとにしあらし吾が宿の       若木の梅も未だ含めり。(七九二) (春雨を待つというためであろう。わたしの宿の若木の梅もまだ蕾のままだ。)    わが宿の梅の下枝に遊びつつ       鶯《うぐいす》鳴くも散らまく惜しみ。(八四二) (わたしの宿の梅の、下の方の枝に遊びながら鶯が鳴くよ。花の散るのを惜しんで。) のようによんだ歌はありますが、まだ枝や幹の趣をうたってはいません。ただ、大伴家持の、    今日降りし雪に競ひて我が宿の       冬木の梅は花咲きにけり。(一六四九) とあるのは注意されます。また、梅の花と柳の枝を配してよんだり、    梅の花散らまく惜しみ吾が苑《その》の       竹の林に鶯鳴くも。(八二四) (梅の花の散るのを惜しんで、わが園の竹の林に、鶯が鳴いているよ。) のように、梅の花と竹の林とを対してよんだ歌もみられます。  また、梅に鶯を対応させることは、万葉集の歌に多くみられます。    鶯のおと聞くなべに梅の花       吾家《わぎへ》の苑に咲きて散る見ゆ。(八四一) (鶯の声を聞くと同時に、梅の花が、わたしの家の庭に咲いて散るのが見える。) はそういう例です。 梅の花ににおう柳の眉[#「梅の花ににおう柳の眉」はゴシック体]  橘にほととぎすを配し、萩に鹿を配した歌も、すでに万葉集に多くうたわれております。    ほととぎす来鳴きとよもす橘の       花散る庭を見む人や誰れ。(一九六八) (ほととぎすがきて、鳴いては騒ぐ橘の花の散る庭を、みにくる人はだれであろうか。)    秋萩の散りのまがひに呼び立てて       鳴くなる鹿の声の遙けさ。湯原王(一五五〇) (秋萩の散る間から、呼び立てて鳴く鹿の声が、はるかに聞こえる。) なども、両者を配した歌です。  そうして、梅に配した植物としては、柳がよくうたわれております。柳は、梅のように花で愛されるのではなく、枝によって愛されるのですが、大宰府での梅花の宴の歌にも、梅に柳が多くうたわれております。柳は必ずしも春の植物とは限りませんが、柳の芽ぶくのは春です。万葉集の歌にも、    うち靡《なび》く春の柳とわが宿の       梅の花とを如何にか分かむ。(八二六) (なびいている春の柳と、わたしの家の梅の花とを、どのように区別しようか。)    梅柳過ぐらく惜しみ佐保の内に       遊びしことを宮もとどろに。(九四九) (梅や柳の季節の過ぎるのを惜しんで、佐保のあたりで遊んだことよ。宮も震動するほどに。) をみても、梅と柳とは、ならびうたわれております。    梅の花取り持ち見ればわが庭の       柳の眉《まゆ》し念ほゆるかも。(一八五三) (梅の花を持ってみると、わたしの庭の眉のような柳が思われることだ。)  梅の花をみると柳の眉が思い出される、というのですから、両者の関係は密接です。梅の花が咲いて柳が芽ぶくのは、早春の景色を、まず思わせるのです。 [#小見出し] 〈2〉梅につづく花々 梅と桜と山椿の花[#「梅と桜と山椿の花」はゴシック体]  梅というと桜を思わせるのですが、梅と桜とは季節を異にするので、梅が咲いて桜がつづくというようにうたわれます。    梅の花咲きて散りなば桜花       つぎて咲くべくなりにてあらずや。 張氏福子(八二九) (梅の花が咲いて散ると、桜の花がつづいて咲くようになるのであろうよ。) は、そういう歌です。桜は古来愛好されているのに、万葉集では梅の方におされて、数も少ないのは、万葉時代には、梅の花が外来の花として珍しがられた点もあることは、前に申しました。平安時代では桜の方が多くうたわれ、万葉集で、「梅をかざして」とあった歌が、新古今集では「桜かざして」となってくるのです。枕草子には、清涼殿で桜を花びんにさしてあるさまが書かれてありますが、桜は戸外で咲きみだれた点に美しさがあり、その点で梅とは相違があります。  春の花としては、椿の花もあげられます。万葉集にも、    巨勢山《こせやま》の列列《つらつら》椿つらつらに       見つつ思ふな巨勢の春野を。 坂門人足(五四) (巨勢山の、つらつら椿をつくづく見ながら、巨勢の春野のことを思い出すよ。) のような、すぐれた歌がありますし、桜の花とは異なる趣もあります。また、椿は花だけでなく、葉も愛せられています。ただ、万葉集によまれた歌数からいえば十首ほどで、それほど多いとはいえません。現在は、椿は種類がきわめて多いようですが、万葉集のころは、山野にはえている山椿をさしているようです。 あでやかにうたわれた桃の花[#「あでやかにうたわれた桃の花」はゴシック体]  桃の花も春の花としてうたわれております。桃は梅と同じく中国から渡来した花であり、漢文にも、詩経以来多くみえております。万葉集でも、歌だけでなく、漢文の序にもみえております。桃が魔を払うといわれるのは、その成長力のつよい木であるためもあります。    春の苑《その》くれなゐにほふ桃の花       した照る道に出でたつをとめ。 大伴家持(四一三九) (春のそのに、紅の色のはえる桃の花。その下の照りかがやく道に、少女が出て立っている。) は、桃の花におとめを配し、その濃艶な趣がよく表われております。  そのほか、李《すもも》の花もありますが、万葉集にみえているのは、つぎの一首だけです。    わが園の李の花か庭に散る       はだれのいまだ残りたるかも。 大伴家持(四一四〇) (わたしの園の李の花が庭に散ったのであろうか。まだらの雪がまだ残っているのであろうか。その花びらがまだ残っているよ。)  椿や桃に比べると地味な花だけに、うたわれることも少なかったのです。そうして、これらの桃や李の花などは、万葉集でも後期の、家持などによって多くうたわれていることが注意されます。  すみれは、4の章の〈3〉にあげた山部赤人の、    春の野にすみれつみにと来しわれぞ       野をなつかしみ一夜ねにける。(一四二四) があります。このすみれは食用のすみれである、ともいわれています。 山水に結びついた季節の自然美[#「山水に結びついた季節の自然美」はゴシック体]  春の植物としては、せりやつばなも、うたわれており、松や竹も、もとよりうたわれておりますが、春の花としては、ここにあげた程度であり、それほど多いとはいえません。しかし、これらの春の花に対する愛情の深さは、どの歌にもみられるのです。  そうした春の花も、風土や季節の美からいいますと、花だけが孤立してあるのではなく、鳥と結びつき、月や風ともかかわってきます。  万葉集にある梅花宴の歌にも、    春されば木ぬれがくりて鶯ぞ       鳴きていぬなる梅が下枝《しづえ》に。 小典山氏若麻呂(八二七) と、鶯と合わせてうたわれています。そうして春の月が照り、春風が吹くということと一つになって季節の美がうたわれるのです。そうしてその場所は、山裾であったり、川のほとりであったりするのです。山水と花鳥風月とが結びついて具体的な自然の美があるのです。 [#扉9(chapter9.jpg)]  9 武蔵野の万葉 [#小見出し] 〈1〉入 間 路 その道はどれをさすのか[#「その道はどれをさすのか」はゴシック体]  万葉集の歌は、3の章で指摘したように、地域からいうと、第一の風土圏の大和を中心として、その周辺にある山城・難波・紀伊・伊勢などを第二の風土圏とし、さらに東には東海道を伝わって東国に至り、北には近江を通って越中などの北越に至り、西は瀬戸内海を通って九州に至っています。これは第三の風土圏をなしています。これらのすべての地域にわたって、その風土と歌とをみることは必要ですが、ここでは東国の歌、ことに武蔵野の万葉をとりあげてみたいのです。それも時々歩いてみたときの体験をもとにして、二、三の歌をよんでみましょう。    入間路のおほやが原のいはゐづら       引かばぬるぬる吾にな絶えそね。(三三七八) (入間路の、おほやが原にはえている、いはゐづらを引っぱると、ぬるぬる引かれてくるが、そのように引かれてわたしに絶えてくださるな。)  この歌は万葉集の東歌であり、武蔵国九首の中の一首です。東歌は上総《かずさ》・下総《しもうさ》・常陸《ひたち》・上野《こうずけ》・下野《しもつけ》・信濃《しなの》・遠江《とおとうみ》などにわたっていますが、未詳の国の歌には三河尾張の歌もあるようです。ただ、その歌によみこまれている地域については、はっきりしない場合もあります。  ここにあげた歌の地域は、入間川が流れており、入間川町(編集注 現・狭山市)もあるので、だいたいの地域はわかっているのですが、「入間路」がどの道であるか、「おほやが原」がどこかという点になると諸説があって定め難いのです。 秩父山脈を見はるかす入間川の里[#「秩父山脈を見はるかす入間川の里」はゴシック体]  豊岡(武蔵町——編集注 現・入間市)は、所沢と川越との中間を西の方にはいった所にあり、そのそばを入間川が流れています。川幅は広いのですが、今では大部分葦などが生えていて水の流れているところは少ないのです。はるかに秩父山脈がみえ、川の向こうにはわら葺きの家などもあって、のどかな風景です。  入間路はどの道をさすのでしょうか。万葉集には紀路・信濃路・筑紫路などがみえます。筑紫路は筑紫へいく道ですが、信濃路や大和路は信濃や大和へいく道の場合もあり、大和や信濃にある道をも表わしています。ここでいう入間路も入間川付近の道とみてもよいのです。入間川の流域の道でもあり、具体的には入間川町と川越とのあいだの道などをさしたのかもしれません。それとともに、おほやが原をどこにあてるかの問題があります。  これについては、土屋文明氏の『万葉紀行』の中に、そのあたりを幾度か歩いて、その所在をつきとめようとした紀行がみえます。それには、「入間路は入間川町から広瀬、高萩方面をすぎ、川越の西を通ってか、或いは又入間川沿いに川越付近から東松山の方に通じていたものとみねばなるまい。」とし、「おほやが原も、その沿道に求むべきである。」としています。 [#大谷沢付近の入間川(fig190.jpg、横400×縦332)] 蓴菜《じゆんさい》が育つ一帯の沼沢[#「蓴菜《じゆんさい》が育つ一帯の沼沢」はゴシック体]  おほやという語に近い地名は、和名抄にも「入間郡大家於保也介《いるまごおりおほやおほやけ》」とあり、その大家は、川越街道の大井村(現・大井町)であるとする説もみえます。また、地図をみると、坂戸町のそばに大家村(いずれも、現・坂戸市)という地名もありますが、ここは新しくできた地名のようです。土屋氏は入間川町の北方にある、下大谷沢・大谷沢のあたりではないかとされています。また谷馨氏の『万葉武蔵野紀行』では、越生《おごせ》町大谷をそれにあてようとされています。  いずれとも決定はされませんが、入間川・入間路と合わせて考えますと大谷沢のあたりともみられます。大谷沢とあるのは、そのあたりが沼沢地であったためでしょう。この歌をみても、おほやが原に、いはゐづらが生えていたのです。このいはゐづらは、すべりひゆとみる説や、蓴菜《じゆんさい》とみる説があります。 「引かばぬるぬる」とあるので池か沼にあることは明らかで、橋本直香が蓴菜であるとしているのを、土屋氏が賛成しているのも至当です。  大谷沢あたりの小路を歩くと、こんもり茂った林もあり、低地もあります。鯉久保池とか、せんだい池とか、そのあたりにあるようですが、それは万葉の昔からある池ではないようです。要するに大谷沢付近は沼沢地が多く、そのような名もついたのでしょう。そういう沼や池に、万葉の昔にも、いはゐづらがはえていて、引けばぬるぬるととりあげられた、と想像するだけでよいでしょう。 千百年前の武蔵野の恋[#「千百年前の武蔵野の恋」はゴシック体]  この歌は、ぬるぬるまでが序で、ぬるぬるといはゐづらを引くように、あなたを引くとわたしについてきて、絶えてくれるな、という意で、若い男女の恋の歌ですが、序に、その恋の生まれた土地の風土や背景がよみこまれていて、田園の牧歌的情調がゆたかです。ただ、上野歌にも、    上野《かみつけ》のかほやが沼のいはゐづら       引かばぬれつつあをな絶えそね。(三四一六) (上野の、かほやが沼のいはゐづらを引くと、ぬれているが、そのように人から誘いをうけても、わたしを絶えてくれるな。) とあって、類歌となっているのは、広く謡《うた》われたからでしょう。  わたしは入間川のあたりに立ち、また、入間路のおほや沢の、とある小川のほとりに立ちながら、千百年前に、このあたりで恋を語った若い男女の姿を目に浮かべたことでした。 [#小見出し] 〈2〉小岫《おぐき》の雉《きぎし》と朮《うけら》が花 きじが飛び立つ武蔵野の丘陵[#「きじが飛び立つ武蔵野の丘陵」はゴシック体]  万葉集から、武蔵野をよんだ歌をあげてみますと、    武蔵野のをぐきが雉《きぎし》立ち別れ       いにしよひより背《せ》ろに逢はなふよ。(三三七五) があります。武蔵野といっても、どのあたりをさしたかはわかりませんが、武蔵国を中心としていたことはいえるでしょう。そうして、主として平原をさしたことも明らかです。ただ、ここに「をぐき」というのは小岫でしょうが、それは山に接した丘陵地帯をさすのです。高い山ではないが丘陵のようなものもあったとみてよいでしょう。土屋文明氏は『万葉紀行』の中に、狭山の丘の周囲とか、所沢・飯能間、あるいは飯能・越生《おごせ》間などに、そういう地形の所はいくつもある、といっておられます。  わたしも飯能のあたりを歩いたとき、小岫といってよいところを感じました。そういえば、万葉時代には、今の東京の山手は原野であったのでしょうが、ところどころ丘陵地帯もあります。それらのどこかをさしているともみられます。そこに雉がいたのです。 「背ろ」は背であり、夫ですが、ここは愛人といってよく、「ろ」は接尾語で、親しみの意はあるが直接の意味はありません。「なふ」は、東歌にはよく出てきますが、否定の「ぬ」の意です。歌の意は、 (武蔵野にある丘のところから、雉が飛び立つように別れていったその晩から、愛する人には会いませんよ。) となります。丘のところから飛び立つ雉をよくみていたところから、それをまずいって、そのように別れていった愛人に会えないのを嘆く女性の心情が、よく表われています。  武蔵野の村落に住む男女の愛恋は、こういう歌にもみられますが、この歌は、武蔵野の地形をみる上に参考になるものです。そういう、小岫のような地形の所を歩いてみるのも楽しみです。 可憐な武蔵野おとめの心情[#「可憐な武蔵野おとめの心情」はゴシック体]    恋しけば袖も振らむを武蔵野の       うけらが花の色に出《づ》なゆめ。(三三七六)  これも愛恋の歌です。この歌では、武蔵野を「牟射志野」と書いてあるので、「むざしの」と訓《よ》んだかと思われます。ここでは、うけらが花という植物がよまれています。武蔵野を語るとき、植物のことは重要です。武蔵野の面影の残っていると思われる所を歩くと、ならの木やくぬぎ林などが目につきますが、紫草やうけらが花なども、古くから歌によまれています。  このうけらが花は、江戸の歌人もよんでおり、千陰(一七三五—一八〇八年)は、その家集の名に「うけらが花」とつけています。それほど目にたつ花ではなさそうですが、古来愛されたのでしょう。夏から秋にかけて、あざみのように花が開きますが、白が主であり、ときには赤い花もあります。それほど派手な花でなくても、色に出るといったのです。これには色に出ないにかかるとみる説もありますが、わたしは色に出るにかかると解しておきたいのです。 (恋しかったら袖も振りましょうから、武蔵野の、うけらが花の色が目に立つように、人目につくようにしてくださるな。) というほどの意です。女性の歌でしょう。武蔵野おとめの可憐な心情がよく出ています。千年前の武蔵野に美しい少女がいた。それに真間手児奈に慕いよったように、慕いよる男性もあって、牧歌的な情調がかもし出されるのです。 [#小見出し] 〈3〉多 摩 川 手織りの麻布をさらすおとめ[#「手織りの麻布をさらすおとめ」はゴシック体]    多摩川にさらす手づくりさらさらに       何ぞこの児のここだかなしき。(三三七三)  この歌は、多摩川をよんでいます。東歌の中でもすぐれた一首として、よく知られています。この歌の歌碑も、多摩川畔の狛江町和泉にあります。松平楽翁の書で、文化二年に建ったのですが、それはなくなって、今あるのは、大正十一年に、旧碑の拓本を模刻したもので、渋沢栄一の撰文があります。ただ、文化二年に建ったときは多摩郡猪方村にあった、とありますから、今の場所とは異なっています。  わたしが多摩川畔を歩いてこの碑を見たのは、かなり前で、学生十数名といっしょでした。天気のよい日で、のんびりした気持ちで川べりにもおりて、この歌を思い出していました。もとより、この歌がどのあたりでよまれたかは明らかでなく、それをどの辺と定める必要もありません。歌碑をあそこに建てたことも、別に根拠あってのことではないでしょう。ただ、猪方村にあったのを、なぜ和泉に移したのかは疑問です。  この歌からみますと、多摩川では、万葉のころに、布をさらしていたことがわかります。その布をさらしていたのが若い少女であったことも想像されます。手づくりは、麻か楮《こうぞ》で織った手製の布です。「さらさらに」は「さらす」から「さらさら」と音の上からつづくとみることもできますし、また、さらすときの布の手ざわりの音と解することもできます。「松原のつばらつばら」とつづく場合と同様でしょうが、それとともに、布をさらすときの音ともみられます。 どうしてこんなにもいとしいのか[#「どうしてこんなにもいとしいのか」はゴシック体]  谷馨氏は『万葉武蔵野紀行』の中で、さらすの同音異義の点だけからみるべきであり、布を水にさらす音まで意識するのは、従い難いとされていますが、わたしは両方とも認めたいのです。すくなくとも、わたしどもがこの歌をよんだ場合、両方を感じるのです。  また「さらさらに」は繰り返す意味があり、その意味がつぎの句にかかって、どうしてこの児がこんなにいとしいのであろうか、とつづくのです。この「さらさらに」は、平安時代になって古今集に、    美作《みまさか》や久米《くめ》の皿山《さらやま》さらさらに       我が名は立てじよろづ代までに。(巻二十) (美作の、久米のさら山のように、さらさらわたしの浮名は立てますまい。いつまでも。) とあって、「さら山」から「さらさら」とつづいていますが、この場合は、「我が名は立てじ」と否定形につづくので、否定をより強く表わすことになります。  万葉集の本歌は、どうしてこの児がこんなにいとしいのであろう、の意です。この児は若い女性をさしています。上の句は序詞ですが、多摩川に、手作りの布をさらしている、その若い女性がいとしい、と解して、いっそうこの歌は情趣をますようです。序詞は、そのような場合が多いのです。  多摩川べりののどかな情景に、牧歌的な情調を感ずるのですが、それには、この歌の音調の流麗な点が、そういう情調をおこす上に役立っています。 鹿の肩を焼いて愛を占う娘[#「鹿の肩を焼いて愛を占う娘」はゴシック体]  武蔵野のどこかわかりませんが、万葉時代の武蔵野の、若い男女の愛情のささやきを聞くものに、つぎの歌があります。    武蔵野にうらへ肩焼きまさでにも       告らぬ君が名うらに出にけり。(三三七四)  この歌にはまた、そういう青春の抒情が、村落における民間信仰に制約されている状態をも、知ることができるでしょう。「うらへ」はこれを動詞とするのに反対する説もありますが、動詞として、占をして鹿の肩の骨を焼き、それで判断するとしておきます。「まさで」は正面から君を愛しているといわないのに、愛しているということが占に出てしまった、という意です。  今日の青年なら、こんな民間信仰による制約は念頭にないでしょうが、しかし、四葉のクローバーをみつけて幸福の成就を信じる気持ちは、現在でもなくはありません。その気持ちは、万葉人の心情にも変わりはないといえるのです。君というのは、女性から男性にいう場合が多いので、この歌も女性の歌とみておきます。  ここには、武蔵野おとめの可憐な心情がうかがえますし、民間信仰から、口にもはっきり出さないような胸の思いが、人目に立ってしまったのを、悲しむ心がよく表われています。 [#小見出し] 〈4〉隅田川と角田川 伊勢物語に描かれた隅田川[#「伊勢物語に描かれた隅田川」はゴシック体]  伊勢物語の東下りの段に、    名にしおはばいざこと問はむ都鳥       わが思ふ人はありやなしやと。 という歌があります。これは、昔男が、身をようなきものに思って、東国へ下って、隅田川のほとりでよんだ歌となっています。この昔男は、業平と思われるところから、業平が東へ下ったということになっていますが、業平は東へ下ったことはなく、伝説に過ぎないという説もあります。それでも、この東下りの文から、三河国八橋のあたりも業平が通ったことになり、業平を祭った神社もあります。  その伊勢物語の、隅田川のあたりの文章は、     なほ行き行きて武蔵国と下総国とのなかに、いと大きなる河あり。それを角田河といふ。その河の辺にむれゐて思ひやればかぎりなく遠くも来にけるかなとわびあへるに、渡守「はや舟に乗れ、日も暮れなむ」といふに乗りて渡らむとするに、皆人ものわびしくて、京に思ふ人なきにしもあらず。さる折しも白き鳥の嘴と脚とあかき鴫の大きさなる水の上に遊びつつ魚をくふ。京には見えぬ鳥なればみな人見知らず。渡守に問ひければ「これなむ都鳥」といふを聞きて とあって、この歌があり、そのあとに「と詠めりければ舟こぞりて泣きけり」と結んであります。まことに抒情味のある文で、歌とともに伊勢物語の中でもすぐれた個所です。 川の名だけでなく双方に同名の山[#「川の名だけでなく双方に同名の山」はゴシック体] 「名にしおはば」は、後世、有名という意に解されますが、名をもっているの意で、都鳥という名の鳥であるなら、というのです。そうして、都鳥という名をもっているのなら、都のことを知っていようから、さあ尋ねよう、都にわが愛している人は無事でいるかどうか、ということになります。旅に出て都の愛人(妻であってもよいのですが)を思う愛情があふれています。  ただこの歌だけでしたら、万葉には関係ないのですが、3の章の〈4〉でものべたように、万葉にも角田川《すみだがわ》の歌があるので、それとの関係をみるためにとりあげたのです。  ここにあげた角田川は、今の隅田川でありますが、どのあたりをさすかわかりません。しかし、渡しのあった所であり、武蔵から下総国の方へ渡ったのでしょう。そうして角田川は万葉の歌にもあって、大和から紀伊の国にはいった近くに真土山《まつちやま》があり、そのそばに角田川があります。そうして、弁基の歌に、前出の、    真土山夕越えゆきて廬前《いほさき》の       角田河原に独りかも寝む。(二九八) があります。ただ、わたしが疑問に思いながら解決されないのは、紀伊の角田川と武蔵野の隅田川と同名なのは、偶然の一致であるか、一方からの影響ではないかという点です。隅田川だけなら偶然ともいえますが、この付近に同じく真土山があることです。武蔵の隅田川の付近にも待乳山《まつちやま》があるのですから、偶然の一致とも思われないのです。万葉の歌である紀伊の角田川の名をこちらにもつけたのか、あるいは隅田川だけは偶然の一致で、真土山はそれにならってつけたのか、とも考えられるのです。 いほ崎という地名を両方に[#「いほ崎という地名を両方に」はゴシック体]  江戸時代の元禄のころの歌人戸田茂睡の、『紫の一本』は、江戸の方々を、陶々斎《とうとうさい》と遺佚《いいつ》と二人で歩いたことになっている江戸名所記ですが、それにも角田川のことがしばしばみえ、待乳山のこともあって、「聖天山とも言、金龍山とは浅草寺の山号なれどもここを世にきはめて金龍山といふ」とあり、「山の東の町は橋場への道、角田川へ行くなり」とあります。  そうして、この付近に、いほ崎という地名のあることを記し、「いほ崎は亀井戸をいふとぞ」とあります。「いほ崎とは今の中の郷のあたりとぞ、昔は本所入海にて塩干には洲崎五百ありし故、五百崎と言しといへり」ともあり、「万葉集には廬崎と書り、猶尋ぬべし」と記してあります。  このようにして万葉の廬崎・角田川・真土山が、そのまま武蔵の方にもあるのは、万葉の紀伊の歌から、その名がつけられたようにも思われますが、たしかではありません。 歌の上で大和と武蔵とにつながり[#「歌の上で大和と武蔵とにつながり」はゴシック体]  そうして中世以降にも、順徳院の、    こよひまたたが宿からん庵崎の       角田河原の秋の月影。  また、光俊の歌という、    いほ崎や角田河原に日は暮れぬ       関戸の里に宿やからまし。 があり、はじめの歌は、今宵はまただれが宿をかりてみることであろう、庵崎の角田河原の秋の月の光を、という意であり、あとの歌は、庵崎の角田河原に日は暮れてしまった、今夜は関戸の里で宿をかりることであろう、の意ですが、これらの歌は、歌枕としてよまれたので、そこへ行ったのではないでしょう。ですからどちらでもよいようですが、武蔵の歌としてよまれたとみられます。  いずれにしても、万葉集の角田川や真土山や廬崎と、伊勢物語以降にみえる、武蔵野の隅田川や待乳山とは、歌としてはつながりができてきます。それは地名の伝播としても解されるのです。 [#小見出し] 〈5〉紫草と国分寺 その美しい花にことよせて[#「その美しい花にことよせて」はゴシック体]  万葉植物は、万葉の歌に趣をそえるものとして、よむものは心をひかれるのです。それで、方方に万葉植物を集めているところがあります。奈良の春日公園にある万葉植物園をはじめ、諸所にありますが、東京でも、国分寺や深大寺の境内その他にあり、武蔵野にある紫草をはじめ、いろいろの植物がみられます。  国分寺では、住職が万葉植物を境内に集めて栽培しているので、百五十種ぐらいあります。昭和二十五年ごろから集められたとのことで、十数年はかかっています。紫草は十年もさがして手に入れたそうです。  紫草は、万葉時代には、東国にずいぶん多かった植物で、武蔵野にも至るところにあったのです。延喜式の交易雑物に、紫草の産出量をあげてありますが、相模三七〇〇斤、武蔵三二〇〇斤、常陸三八〇〇斤、信濃二八〇〇斤、上野二三〇〇斤など多い方で、甲斐八〇〇斤、出雲一〇〇斤などとあります。紫草は自生もありますが栽培もしています。紫草が栽培されたのは、この根の皮に紫の色素があり、それから紫の染料をとったからですが、花も愛されたのです。  万葉集の、    紫の匂へる妹をにくくあらば       人妻故にわれ恋ひめやも。(二一) という、大海人皇子が額田王に答えられた御歌は、紫の色のはえるように照りはえるあなたを、悪く思うのでしたら、人妻であるものを、わたしは恋いましょうか、いとしいからこそ、あなたが恋しいのです、という意です。 [#紫草(fig205.jpg、横400×縦322)] 愛を語らせるところに魅力[#「愛を語らせるところに魅力」はゴシック体] 「紫の匂へる」とあるのは、紫草の美しさをいったのです。この歌や、額田王の、    あかねさす紫野行き標野行き       野守は見ずや君が袖ふる。(二〇) の紫野も、蒲生野で紫草を栽培していたとみられます。直接には紫草とありませんが、紫草をさしたのでしょう。万葉集にはこのほかにも、紫草をうたった歌は多くあります。    紫の根はふ横野の春野には       君を懸けつつ鶯鳴くも。(一八二五)  紫の根のひろがっている春の横野では、あなたのことを心に懸けながら鶯が鳴いていますよ、という意で、紫草の根が広がっていることをうたい、花よりも根の方を主としています。横野は、大阪の生野区巽大地町に、式内神社の横野神社がありますので、そのあたりの野と思われ、武蔵野には関係ありませんが、春野ともあって、春のころに芽を出してくる紫草に注目しているのです。    紫は根をかもをふる人の児の       うらがなしけを寝ををへなくに。(三五〇〇)  紫草は根を生うることです。それだのに、人の子の心にいとしく思うのを、とも寝をすることができません、という意で、根に寝をかけています。この歌も、根をよんでいます。これは東歌ですから、東国のどこかでよまれたのです。国名は記してありませんが、武蔵野であったかもしれません。「人の児のうらがなしけ」とありますから、男性の女性に対する愛情をうたった歌です。根をよんでいるので、花の美しさではありませんが、それでも、そういう男女の愛情と結びつけられる点に、この草の魅力があります。 国分寺跡に立って思う天平の昔[#「国分寺跡に立って思う天平の昔」はゴシック体]    紫を草と別く別く伏す鹿の       野は異にして心は同じ。(三〇九九)  紫野の、草をわけながら伏す鹿の野とはちがいますが、そのねようとする心は同じです、という意で、巻十二にあり、東国の歌ではないでしょうが、紫草をよんだことは明らかです。紫は灰さすものぞ、ともありますから、染料としては灰をさしたのでしょう。紫草をよんだ歌が、はまゆうと異なって、万葉集に数多くあるのは、東国や近畿地方一帯に生じて親しまれたためでしょう。  国分寺の境内には、ぬば玉をはじめ、種々の万葉植物が所をえていましたが、今はあげることを略して、古の国分寺の跡についてのべておきます。  国分寺跡は、今の国分寺の門前と道をへだててあります。相当に広い地域が原となっていて、ところどころに礎石が残っています。そうして、天平年間に建てられた武蔵の国分寺の跡であることが記してあり、近くに国分尼寺もあったとあります。それにしても、当時の仏教信仰の盛んであったことを思わせます。奈良の東大寺を総国分寺として、諸国に国分寺が建てられたのです。  かつて、仙台地方やその他の国分寺跡をおとずれたこともありますが、武蔵の国分寺の跡に立って万葉の歌のよまれた天平時代を思いますと、まことに往事茫々の感があります。 [#武蔵国分寺の万葉植物園(fig208.jpg、横350×縦441)] [#改ページ] 万葉略年表 [#ここから改行天付き、折り返して8字下げ] 西暦  年号  事項   (前万葉時代) 三一三     一月、仁徳天皇即位。 四五六     一一月、雄略天皇即位。 五三九     一二月、欽明天皇即位。 五九二     一二月、推古天皇即位。 六一五     聖徳太子、旧事記などの撰修。 六一七     聖徳太子薨去(四九歳)、一説六一六年(四八歳)。   (万葉第一期) 六二九     一月、舒明天皇即位。天皇香具山に登り国見の歌あり(二)。 六三七     二月、天皇、大后、伊豫温湯宮に幸《みゆき》。 六三九     一二月、伊豫温湯宮に幸。 六四二     一月、皇極天皇即位。額田王の歌(七)。 六四五 大化一 六月、皇極天皇譲位。中大兄皇子皇太子となる。孝徳天皇即位。 六五五     一月、斉明天皇即位。冬、飛鳥川原宮に遷都。 六五六     飛鳥岡本宮に遷都。 六五八     一〇月、天皇、紀温泉に幸。一一月、有馬皇子薨去。 六六一     一月、天皇、御船伊豫熟田津石湯行宮に泊る。額田王の歌(九)。七月、天皇崩御。 六六七     三月、近江大津宮に遷都。 六六八     五月、蒲生野の遊猟。額田王と大海人皇子との歌。額田王、歌人として世に知らる。         一〇月、高麗滅ぶ。 六六九     一〇月、藤原鎌足逝く。 六七一     一二月、天智天皇崩御。弘文天皇即位。 六七二     二月、壬申の乱。弘文天皇崩御。 六七三     二月、天武天皇即位。飛鳥浄見原宮に遷都。 六七五     二月、十市皇女、伊勢神宮に赴く。 六七八     四月、十市皇女薨去。 六八一     二月、草壁皇子(日並皇子)、皇太子となる。 六八六     九月、天武天皇崩御。         一〇月、大津皇子薨去。   (万葉第二期) 六八九     四月、草壁皇子薨去。持統天皇、たびたび吉野に幸。柿本人麻呂・高市黒人・長意吉麻呂ら、歌人として活躍。 六九四     一二月、藤原宮に遷都。 六九八     八月、文武天皇即位。人麻呂、歌人として活躍。 七〇一 大宝一 山上憶良、遣唐小録となる。 七〇二   二 太上天皇(持統天皇)、一〇月に三河国に幸し、一二月に崩御。 七〇七 慶雲四 六月、文武天皇崩御。   (万葉第三期) 七〇八 和銅一 但馬皇女薨去。和銅のはじめに人麻呂逝くか。 七一〇   三 三月、寧楽《なら》宮に遷都。 七一二   五 一月、太安麻呂、「古事記」を撰進。 七一三   六 五月、「風土記」を撰進さす。 七一五 霊亀一 九月、元明天皇譲位。元正天皇即位。 七一六   二 四月、憶良、伯耆守となる。 七二〇 養老四 三月、旅人、征隼人持節大将軍となる。五月、舎人親王、「日本書紀」を撰進。 七二一   五 憶良ら、東宮侍講となる。 七二四 神亀一 二月、聖武天皇即位。この御代に、赤人・金村は宮廷供奉の歌人として、旅人(大宰帥)・憶良(筑前守)は九州歌壇で活躍。 七三〇 天平二 一〇月、旅人、大納言となり、一二月に帰京。 七三一   三 七月、旅人薨去。憶良、この年に帰京するが、七三三年ごろ逝く。 七三二   四 八月、藤原宇合、西海道節度使となる。 七三六   八 一一月、諸兄らに橘宿禰の姓を賜う。 七三七   九 四月、藤原房前薨去。八月、藤原宇合薨去。 七三八  一〇 中臣宅守、このころ越前に流される。 七四〇  一二 九月、藤原広嗣の叛。一二月、恭仁京に遷都。 七四四  一六 一月、難波宮に遷都。 七四六  一八 家持、三月に宮内少輔となり、六月に越中守となる。九月、大伴書持歿す。山部赤人、このころ歿するか。 七四八  二〇 三月、諸兄の使い田辺福麻呂、越中に下る。四月、元正天皇崩御。 七四九 天平勝宝一 二月、陸奥より黄金を献る。七月、聖武天皇譲位。孝謙天皇即位。 七五一   三 七月、家持、少納言となる。 七五四   六 四月、家持、兵部少輔となる。 七五五   七 二月、家持、防人の事務を扱い、防人歌を集める。 七五六   八 五月、聖武天皇崩御。 七五七 天平宝字一 一月、橘諸兄薨去。六月、家持、兵部大輔となる。七月、橘奈良麻呂叛す。大伴古慈悲、土佐に流される。 七五八   二 六月、家持、因幡守となる。八月、孝謙天皇譲位。淳仁天皇即位。 七五九   三 一月一日、家持、因幡国庁にて餐をなし、万葉集巻二〇巻末の歌をよむ。 七六四   八 一月、家持、薩摩守となる。九月、恵美押勝の謀反あらわれる。一〇月、称徳天皇重祚。 七七一 宝亀二 一〇月、光仁天皇即位。 七七二   三 五月、濱成の歌経標式成る。 七八一 天応一 光仁天皇譲位。桓武天皇即位。     延暦二 家持、中納言となる。 七八五   四 八月、家持薨去。 七八七   六 一〇月、平安遷都の詔あり。 [#ここで字下げ終わり] [#万葉略系図 一(fig216.jpg、横×縦)] [#万葉略系図 二・三(fig217.jpg、横×縦)]  万葉集の参考文献 上代国文学の研究         武田祐吉 大10・3 文学序説             土居光知 大11・7 万葉集の新研究          久松潜一 大14・9 万葉集の鑑賞及び其批評      島木赤彦 大14・11 万葉集の文化史的研究       西村真次 昭3・3 古代研究             折口信夫 昭4・4〜5・6 万葉集概説            佐佐木信綱 昭7・11 国文学研究 万葉集篇       武田祐吉 昭9・1 柿本人麻呂            斎藤茂吉 昭9〜18 万葉集考説            久松潜一 昭10・2 万葉集叢攷            高崎正秀 昭11・7 万葉の作品と時代         沢瀉久孝 昭16・3 吉野の鮎             高木市之助 昭16・9 万葉集の芸術性          森本治吉 昭16・4 万葉集の研究           佐佐木信綱 昭17・2〜23・7 旅人と憶良            土屋文明 昭17・5 万葉集の精神           保田与重郎 昭17・6 万葉集の自然感情         大西克礼 昭18・4 国文学研究柿本人麻呂攷      武田祐吉 昭18・7 万葉集私見            土屋文明 昭18・7 人麻呂の世界           森本治吉 昭18・9 万葉の地盤            田辺幸雄 昭18・9 古典考究 万葉篇         石井庄司  昭19・7 貴族文学としての万葉集      西郷信綱 昭21・8 万葉苑枯葉            新村 出 昭23・2 大伴家持の研究          尾山篤二郎 昭23・12 万葉美の展開           森本治吉 昭24・6 古代和歌             五味智英 昭26・1 万葉集作家の系列         五味保義 昭27・4 古文芸の論            高木市之助 昭27・5 記紀万葉の世界          川崎庸之 昭27・11 万葉の世紀            北山茂夫 昭28・5 万葉——その異伝発生をめぐって  末永 登 昭30・1 万葉の風土            犬養 孝 昭31・7 万葉歌人の誕生          沢瀉久孝 昭31・11 万葉集と日本文芸         山田孝雄 昭31・5 万葉集論究            児山敬一 昭31・6 日本抒情詩論           青木生子 昭32・1 初期万葉の世界          田辺幸雄 昭32・5 万葉の伝統            大久保正 昭32・11 万葉集とその前後         久松潜一 昭33・9 万葉集相聞の世界         伊藤 博 昭34・10 万葉風の探求           岡崎義恵 昭35・2 万葉集評論            三宅 清 昭35・2 万葉集の創造的精神        北山茂夫 昭35・4 額田王              谷 馨 昭35・4 山部赤人の研究          尾崎暢殃 昭35・10 古代日本文芸における恋愛     青木生子 昭36・5 万葉集の誦詠歌          久米常民 昭36・7 柿本人麻呂            山本健吉 昭37・6 万葉十三人            都筑省吾 昭37・10 上代日本文学と中国文学 上・中  小島憲之 昭37・9〜38・12 万葉集の比較文学的研究      中西 進 昭38・1 万葉集東歌            田辺幸雄 昭38・9 万葉の色相            伊原 昭 昭39・6 この参考文献は万葉集の文学的研究を中心としましたので、本文批評や注釈など基礎的研究書は略しました。  著者略歴 ●ひさまつ・せんいち 一八九四年、愛知県に生まれる。東京帝国大学文学部を卒業以来、万葉集と日本文学評論史の研究に専念し、第一高等学校・東京大学・慶応義塾大学の教授を歴任した。文学博士。その間、六年にわたって皇太子殿下(現・天皇)に国語・国文学を、また一九六〇年の新年御講書初で中世歌論を御進講。東京大学名誉教授、日本学士院会員。著書には、一九三九年に日本学士院賞を受けた「日本文学評論史」を初め「和歌史」「万葉集の新研究」「万葉集考説」など数多くある。一九七六年三月没。     * 本書は、講談社現代新書として一九六五年二月に出版されたものです。